タイトル:黄昏世界(たそがれせかい)
第1章: 黄昏への扉
「瀬名先生、これは夢でしょうか。それとも、何かのお告げなのでしょうか」
目の前の男は、ほとんど消え入りそうな声でそう呟いた。中年の男性。髪は薄くなり、やつれた顔には深い皺が刻まれている。疲労と不安が全身にまとわりつき、一樹(いちき)のカウンセリングルームの薄暗い光の中で、彼の存在がかえって影のように際立っていた。
「夢というのは、時に無意識の感情や記憶を映し出すものです。しかし、その夢の内容がご自身の行動や精神状態に影響を与えている場合は、ただの夢と片づけられません」
瀬名一樹(せないつき)は冷静に言葉を紡ぎながら、ペンを指でくるりと回した。
「先生、これを見てください」
男性が震える手で差し出したのは、一枚の写真だった。古びた家の中、壊れた家具や壁が散乱している。廃墟の写真だ。しかしその中心には――異様な光を放つ扉が映り込んでいた。
「これが、夢に出てきた扉です」
写真の中の扉は、まるでそこだけ別の次元から切り取られたようだった。深い紫と金色が混ざり合い、うねるように輝いている。現実世界に存在するものではない、と直感的に分かる不気味さがあった。
「ここは、どこですか?」
「〇〇町の外れにある廃墟です。……妻と息子が失踪する数日前に、この場所に立ち寄ったと聞いています」
依頼の内容は「妻子の行方を探してほしい」というものだった。だが、一樹の仕事はあくまで心理カウンセラーであり、探偵ではない。それでも、彼の話には抗いがたい力があった。
「先生、この扉を開ければ、きっと彼らに会える。……そう、夢が囁くんです」
彼の目には狂気と執念が混ざっていた。一樹は静かに頷き、次の言葉を飲み込んだ。
黄昏世界への第一歩
数日後、一樹はその廃墟を訪れる決断を下していた。
依頼人が去った後も、彼の話は一樹の脳裏を離れなかった。いや、それは話そのものではなく、あの写真に映った扉の不気味さだ。記憶の奥底に封じた幼少期のトラウマ――かつて、一樹自身が見た"何か"が、彼の心を掻き立てていた。
その廃墟は、町の外れにひっそりと佇んでいた。倒壊しかけた建物に絡みつく蔦が、時の流れを物語っている。入口には錆びた鉄製の扉があり、風が吹くたびに不気味な軋み音を上げていた。
「……ここか」
一樹は深呼吸し、足を踏み入れた。
室内はひどい荒れ様だった。割れたガラス、散乱する家具、そして床に積もる埃。空間にはどこか異様な気配が漂っている。一樹は慎重に歩を進め、写真に映っていた場所を探した。そして――
それはあった。
廃墟の奥、まるでこの空間だけが異質であるかのように佇む扉。
写真で見たものと同じだ。深い紫と金色がうねりながら輝き、見る者を誘い込むように脈動している。
「なんだ……これは……」
一樹の背筋に冷たいものが走った。それでも彼は、扉に手を伸ばした。
その瞬間、空気が弾けるような音がした。
世界が、歪む。視界がぐるぐると回り、重力さえ狂ったかのようだった。
「……くっ……!」
目を閉じて耐えると、静寂が訪れた。
――目を開けると、そこはもう廃墟ではなかった。
空一面が紫と金のグラデーションで覆われ、まるで黄昏時の空が永遠に続いているような世界。足元には波紋のように揺れる地面。現実の法則が通用しない場所――それが、「黄昏世界」だった。
(ここは、一体……)
一樹の胸中で不安と興奮がせめぎ合う。その時、背後から声がした。
「初めて見る景色にしては、随分と冷静ね」
振り返ると、そこには黒いコートを纏った女性が立っていた。彼女の瞳は深く、底知れない輝きをたたえている。
「私は櫻井凛(さくらいりん)。この世界のことを知りたければ、ついてきなさい」
謎の女性――凛との出会いが、一樹の運命を大きく変えることになるのだった。
第2章: 黄昏世界への迷い
空気がまるで液体のように重たく、呼吸一つで肺が満たされる感覚が違う。この世界では、音さえ遠くで反響しているようだった。
「ここは、一体……」
一樹は目の前の景色に呆然と立ち尽くしていた。遠くには黒い森が波のように揺れ、空にはありえない大きさの二つの月が輝いている。
「あなたも招かれたのね」
先ほど背後から聞こえた声の主、櫻井凛が再び口を開いた。彼女は黒いコートを纏い、足元に全く影を落としていなかった。その異質さに一樹は気づき、僅かに身構える。
「招かれた?」
「そう、ここに来る人間には理由がある。意識していなくてもね。黄昏世界はあなたの心の一部……そう考えれば分かりやすいかしら?」
凛は意味深な笑みを浮かべた。
「どういうことだ」
一樹は困惑しながら問い返したが、彼女は答えをはぐらかすように手をひらひらと振った。
「全部を説明する必要はないわ。ただし、覚えておきなさい。この世界では、あなたの恐怖や記憶、未練が具現化するの。つまり、それが敵になる。避けることはできないわよ」
その言葉に、一樹の背中を冷たい汗が流れる。
「それに……」
凛は少し間を置いてから続けた。
「この世界に入り込むと、元の世界には簡単には戻れないのよ」
「……どういう意味だ」
「言葉通りよ。ここで何かを見つけるか、あなた自身が変わる必要がある。さもないと、永遠にさまようだけ」
黄昏世界の法則
凛は一樹を導くように歩き出した。
地面は粘りつくような感触を持ち、足を踏み出すたびに波紋が広がる。周囲の景色は一秒ごとに形を変えており、廃墟の影が見えたかと思えば、次の瞬間には奇妙な花畑に変わっていた。
「この世界のルールを教えておくわ」
凛が振り返り、淡々と語り始める。
「ここでは、時間や空間はあなたの心の影響を受ける。つまり、あなたが不安定であればあるほど、周囲も混沌としていく。そして、この世界の住人たちは、そうした混沌を嗅ぎ取るの」
「住人?」
「ええ、そう。この世界には“彼ら”がいる。姿形はあなたの記憶や恐怖に依存するけど、本質は同じ。彼らに捕まれば、二度と戻れなくなるわ」
一樹は無言で凛の話を聞いていたが、胸の奥底で不安が膨らんでいくのを感じていた。
「でも、大丈夫よ」
ふと、凛が笑みを浮かべた。
「私があなたを導いてあげるから」
初めての遭遇
しばらく歩くと、一樹の耳にかすかな音が聞こえた。
それは低い呻き声のようでもあり、遠くで風が唸る音のようでもあった。
「何だ、あれは……」
一樹が足を止めた瞬間、地面の影が蠢き始めた。影は次第に人間の形を取り、やがて一人の少年の姿になった。
「……啓太?」
思わずその名前を口にした途端、一樹の心臓が跳ねる。目の前の少年は、幼少期の自分の弟・啓太そのものだった。
「にいちゃん、どうして僕を置いていったの?」
啓太の声は懐かしいものでありながら、不気味なほど冷たかった。
「おまえは、そんなはずは……」
一樹の言葉が途切れる。次の瞬間、少年の姿をした影が彼に襲いかかってきた。
「下がって!」
凛が素早く一樹を引き寄せる。その手には、どこからともなく現れた短剣が握られていた。
「しっかりして、これは幻影よ! 自分の過去に飲み込まれたら負ける!」
凛の言葉に、一樹は震える手で拳を握り締めた。
「過去……俺の……」
一樹は再び影を見つめる。その影は、彼の罪悪感そのものだった。
第3章: 黄昏の住人たち
一樹は凛の導きで、さらに黄昏世界の奥深くへと足を踏み入れていた。
この世界は一瞬たりとも同じ姿を保たず、遠くで見えた巨大な塔が、次の瞬間には黒い森に吸い込まれるように消えた。凛の言葉通り、ここでは心の揺れが周囲を歪ませていく。
「ここから先、あなた自身がこの世界をどう感じるかがすべてを左右する。恐れないで」
凛が一樹にそう告げる。
一樹は心の中で何度もその言葉を繰り返した。だが、目の前の景色が異様さを増すたびに、自分の胸の奥底にある恐怖が膨れ上がっていくのを止められなかった。
「……これは?」
視界に飛び込んできたのは、一軒の古びた家だった。歪な形の柱やひび割れた壁、しかし一樹にとってはどこか懐かしさを覚える。
「私の……家?」
幼少期、一樹が育った家に似ていた。いや、それそのものだった。
「行きたければ行くといいわ。けれど、その先で何が待っているかはあなた次第よ」
凛の声には、どこか試すような響きがあった。
家の中に足を踏み入れると、すぐにその理由が分かった。
――そこにいたのは、父だった。
「おまえのせいだ、一樹……」
低い声が響き渡る。父の姿をした影は、怒りと嘲笑の混ざった顔で一樹を睨みつけていた。
「おまえがあのとき、啓太を助けていれば……!」
父の叫びに、記憶の扉が開いた。
啓太が川に流された日。助けようとした一樹は恐怖に立ち尽くし、ただ見つめることしかできなかった――その後悔が、いま目の前に具現化している。
「違う、俺は……!」
否定しようとしても、影の言葉が心に突き刺さる。一樹の周囲の空間がひび割れ、闇がじわじわと広がっていく。
「心を保つのよ!」
凛が鋭い声で叫ぶ。その声が一樹を現実に引き戻した。
「おまえはただの影だ……俺自身が作り出した!」
一樹は震える声でそう叫び、影を真正面から睨みつけた。すると、影は霧のように溶け、やがて完全に消え去った。
第4章: 黄昏の真実
影との対峙を乗り越えた一樹に、凛は感慨深そうに微笑んだ。
「よく乗り越えたわね。でも、それはほんの序章にすぎない」
「序章?」
「黄昏世界はあなたを試しているの。この世界を抜け出すには、さらなる真実と向き合う必要がある」
二人は黄昏世界の中心へと向かっていく。そこには巨大な鏡があり、一樹はその鏡に映る自分の姿を見た。だが、鏡に映っていたのは幼い頃の自分と、泣きじゃくる啓太の姿だった。
「鏡の向こう側に進みなさい」
凛の言葉に、一樹は鏡の表面に手を伸ばす。すると冷たい感触とともに、鏡の中へと引き込まれた。
第5章: 帰還の代償
鏡の向こうで、一樹はすべての記憶と向き合うことになった。
啓太の事故を止められなかった後悔、父との確執、自分を責め続けてきた心の闇。
「この世界は、あなたのように“心の痛み”を抱えた者を癒す場所なの。そして、乗り越えることができれば現実に帰ることが許される」
凛の声が響く中、一樹は自分の中にわだかまる罪悪感を解放する決意をした。
「もう一度、やり直したい……」
その言葉とともに、黄昏世界の風景が崩れ去っていく。
目を開けると、一樹はあの日の廃墟に立っていた。だが、隣に凛の姿はなかった。
「彼女は……」
一樹の呟きに応じるように、風が頬を撫でた。それが凛の別れの挨拶のように感じられた。
一樹はもう一度深呼吸し、静かに廃墟を後にした。黄昏世界での出来事は現実世界では一瞬のことのようだったが、一樹の心には確かな変化をもたらしていた。
エピローグ: 黄昏の向こうに
カウンセリングルームで一樹は新しい依頼人を迎えていた。
「先生、最近、夢を見るんです。奇妙な世界の夢を……」
その依頼人の言葉に、一樹はほんの少しだけ微笑んだ。そして、こう答えた。
「その夢が何を意味するか、一緒に探っていきましょう」
黄昏世界での経験は、一樹の中で生き続けていた。
その世界は、一度訪れた者の心に残る"道標"のようなものなのかもしれない。
物語はここで幕を閉じるが、黄昏世界の秘密はまだ解き明かされていない――。
完