タイトル:『夏のプールサイドの彼女(きみ)』
第1章:夏の午後、冷たい水と君の声
梅雨が明けたその週末、蝉の鳴き声が街を埋め尽くすように響いていた。
高瀬悠は、大学の友人に強引に誘われる形で、市営プールへとやって来た。陽射しは容赦なく肌を焼き、水着姿でいるだけでじんわりと汗がにじむ。
「なあ、せっかくだし流れるプール行こうぜ!」
プールサイドではしゃぐ友人たちの声が遠く聞こえる。だが、悠はその輪に加わる気分になれず、浅瀬のエリアにそっと腰を下ろした。
プールに来るのなんて、小学生以来だ。水の冷たさに足を浸すだけで十分だった。ふと顔を上げると、向こう側の監視台にひとりの女性が座っていた。赤いキャップ、日焼けした肌、涼しげな眼差し。
その視線が、自分の方を一瞬だけかすめた気がした。
「……まさかね」
心の中で笑ったその瞬間、何かに足を取られた。思いがけず重心を崩し、ばしゃりと水に沈む。水を飲み、咳き込み、立ち上がれずにいると——。
「大丈夫ですか?」
その声が、彼女だった。
日差しの逆光で顔がよく見えない。けれど、差し出された手と、その細い指先がやけに記憶に焼きついた。
「す、すみません……あの、ちょっと足を滑らせて……」
「無理しないでくださいね。浅くても油断すると危ないですから」
短いやり取りだった。けれど、彼女の声は、夏の太陽とはまるで反対の、静かな水のように涼しく、胸の奥に染み込んでいった。
——なんだ、この感じ。
まぶしさの中で見上げた少女は、すぐにまた監視台に戻ってしまった。彼女の名前も、年齢も、何も知らない。ただ、水に濡れた腕と心だけが、少しだけ震えていた。
第2章:麦わら帽子とアイスの味
あの日から数日後。
高瀬悠は、再び市民プールの入り口をくぐっていた。理由は自分でもはっきりしない。ただ、あの時の出来事が心に残っていて、妙に胸が落ち着かなかったのだ。
今日も暑い。けれど、空気のざわめきの中に期待のようなものが混じっているのを、自分でも自覚していた。
浅瀬のあたりに腰を下ろして、しばらく水に足を浸す。ちら、と監視台を見上げると、そこには見覚えのある赤いキャップと日焼けした肌——そして、あの瞳。
彼女はこちらに気づいているのかいないのか、無表情でプール全体を見渡していた。
しばらくすると、笛の音が鳴った。休憩時間の合図だ。プールから上がった人々がぞろぞろとベンチや日陰に移動していく中、彼女も帽子を外し、軽く背伸びをした。
悠は、自動販売機に向かいながら、迷った末に二つのアイスを買った。スイカバーとガリガリ君——どちらが彼女の好みかなんて分からないが、直感だった。
監視台の近くのベンチで、彼女が水を飲んでいた。
「あの……こないだ助けてくれたお礼。良かったら、どっちか好きな方」
差し出すと、彼女は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「じゃあ……こっちで」
彼女が選んだのは、ガリガリ君。袋を破りながら、ふっと肩の力が抜けたように言った。
「まさか、覚えててくれたんですね」
「いや、あの時……正直、ちょっと恥ずかしかったけど、声が優しかったのが印象的で」
朱音——彼女はその時、自分の名前を教えてくれた。佐野朱音。大学生で、この夏だけプールの監視員のバイトをしているらしい。
「バイト、あと一週間くらいで終わりなんです」
「えっ、もう? 夏、まだこれからじゃ……」
「でも、夏ってそういうものでしょ。始まったと思ったら、すぐ終わる」
笑って言った朱音の横顔が、どこか寂しげに見えた。アイスが少し溶けて、指先にたれていた。
その日、悠はプールに入らずに帰った。けれど、胸の中には確かに、“夏”が始まりかけている気配があった。
第3章:透明な時間、すこしずつ近づく影
夏休みの間、高瀬悠は何度もプールへ足を運んだ。
もともと泳ぐのは得意でも好きでもなかったはずなのに、なぜか、気づけば通っていた。
理由は一つ——佐野朱音に会いたかったから。
彼女は相変わらず監視台の上からプールを見守っていた。けれど、休憩時間になると、悠と並んでベンチに座り、何気ない会話を交わすようになっていた。
「大学、何を専攻してるんですか?」
「文学部だよ。小説とかエッセイとか読むのが好きで。朱音は?」
「福祉系。人と関わる仕事がしたいと思って」
そう語る朱音の表情は、明るいようでいて、どこか影を落としているように見える時があった。
ある日の午後、強い日差しが雲に遮られ、プールが一瞬静まり返った時、彼女がぽつりと呟いた。
「ねえ、悠くんって、夏が好き?」
「え……うーん、昔は苦手だったけど、今年はちょっと違うかも」
「そっか。私は、少し苦手かな。終わりが見えるから」
その言葉の意味を、悠はすぐには理解できなかった。ただ、朱音の視線が遠くを見ているように感じた。
夏の終わりが近づくにつれ、悠は自分の中に芽生えている想いを自覚し始めていた。彼女と過ごす時間が心地よく、また少しずつ恐ろしくなっていた。
ある日、勇気を出して聞いてみた。
「朱音、バイト終わったら、また会えるかな?」
彼女は少し間を置いてから、ゆっくりと首を振った。
「……ううん、ごめんね。夏が終わったら、引っ越すの。ちょっと遠くに」
言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。けれど、朱音の表情は、その言葉以上のことを伝えていた。
——この夏は、一度きりのものなんだ。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
第4章:水面に浮かぶ約束
八月の終わり。プールに響く子どもたちの声もどこか静かになり、蝉の鳴き声さえ間延びして聞こえるようになった。
佐野朱音のアルバイトは、いよいよ明日が最終日だった。
高瀬悠は、その日の午後、ふと思いついたように申し出た。
「なあ、夜の清掃、手伝わせてもらえないかな。最後に、少しだけ、話がしたくて」
朱音は驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと頷いた。
日が沈んだあとのプールは、水面が月明かりを反射して静かに揺れていた。周囲には誰もいない。朱音はタオルを肩にかけたまま、水の縁を歩いていた。
「誰もいないプールって、不思議な感じだね」
「うん。昼間とは、まるで別の場所みたい」
悠はバケツを手にして、水面を見つめた。ふと、彼女の横顔が目に入る。
何かを言わなくてはならない。今言わなければ、もう二度と伝えられない。
「朱音、俺……」
言葉が詰まった。けれど、彼女は先に口を開いた。
「ありがとう、悠くん。プールで転んでくれて」
思わず、笑ってしまった。
「それ、褒められてるのか……?」
「うん、ちょっとだけね。——私、ここで働いてる間、毎日同じ景色を見てた。でも、悠くんが来てから、少しずつ風景が変わって見えるようになったんだ」
彼女の声は、柔らかく、それでいて切なかった。
「好きになってしまったよ。——でも、引っ越すことは、もう決まってるの」
悠は何も言えずにうなずいた。自分の想いを伝えるよりも、彼女の決意を受け入れることのほうが、大切だと感じたから。
ふと、朱音がポケットから何かを取り出した。小さな、ガラスのペンダントだった。
「これ、置いていくね。お守りみたいなもの。夏が終わっても、覚えててくれたら嬉しい」
手のひらに載せられたペンダントは、プールの水面のように澄んでいて、光を反射してきらきらと揺れていた。
その夜、言葉にできなかった約束が、水面にそっと浮かんだ。
第5章:夏の忘れもの
佐野朱音が最後に見守ったプールの水面は、静かだった。
翌朝、悠は少しだけ早起きして、バイトが終わったあとのプールに向かった。誰もいない更衣室、しまわれたパラソル、干されたライフジャケットたち。
彼女は、もうこの場所にはいなかった。
受付の職員に聞いても「早朝に挨拶だけして帰っていったよ」とのことだった。連絡先は知らない。朱音が最後まで残さなかったのは、きっと理由があるのだろう。
悠は、ベンチに座った。ふと、足元に何かが落ちているのに気づく。拾い上げると、それは髪を束ねる細いリボン——朱音がいつも使っていた、麦わら帽子の下から覗いていたものだった。
無意識に笑みが漏れる。
彼女らしい、照れたような、優しい置き土産だった。
それからしばらく、悠はぼんやりと空を眺めた。少しだけ雲が増えて、太陽の輪郭が淡く滲んでいる。蝉の声も、今日はどこか遠く感じる。
でも、心の中には確かに残っている。
冷たい水の感触と、笑い声。目を細めた彼女の顔。真夏の匂い。
——夏は終わる。でも、それが「終わり」だとは、もう思わない。
悠は、そっとポケットに手を入れた。ガラスのペンダントが、指先に触れる。
次の夏が来た時、また誰かと笑い合えるように。
それが彼女から受け取った、大切なものだった。