
あなたの心の中には、どれくらいの言葉が眠っているでしょうか。
誰にも言えない本音、飲み込んでしまったあの一言、傷つくのが怖くて優しい嘘で覆い隠した本当の気持ち。 もしもそれらの言葉をすべて、目に見える形に紡ぎ出すことができたなら、それはきっと、どんな名作よりも雄弁で、泥臭く、そして美しい一冊の長編小説になるはずです。
この物語の主人公・櫻井拓海もまた、心の中にあまりにも広大な言葉の海を持ちながら、現実の世界では数文字の無難な言葉しか口にできない、不器用な21歳の大学生です。 静かな書店のインクの匂いの中で、彼は一人の眩しい少女・羽柴葵に出会います。太陽のように笑う彼女の裏側にある孤独に気づきながらも、彼は自分の臆病さから、一歩を踏み出すことができません。
しかし、世界は残酷に、そして優しく、二人に「別れ」というタイムリミットを突きつけます。
これは、自分の本音に裏切られ続けてきた一人の青年が、大切な人の涙に触れ、傷つく恐怖を乗り越えて、初めて「自分の生の言葉」で未来を掴み取るまでの軌跡です。
いま、何かの選択を前にして立ち止まっている人へ。 自分の気持ちを上手く言葉にできず、胸を痛めている人へ。
拓海が夜の駅へ向かって走り出し、喉を引き裂くような声で前に進んだあの冬の夜の熱量が、あなたの胸にも届くことを願っています。
それでは、文字たちの静かな世界へ、一歩足を踏み入れてみてください。
『僕は心の声で前に進む』
第1章:インクの匂いと、届かないモノローグ
心の中の僕は、いつだって映画の主人公のように雄弁だ。 世界の不条理を嘆き、美しい景色に詩的な賛辞を送り、目の前の理不尽に対してはウィットに富んだジョークで切り返す。脳内の僕の言葉をすべて書き起こしたなら、きっと分厚い長編小説が何冊も出来上がるに違いない。
「おい、櫻井。悪いんだけど、文芸書の棚の品出し、急ぎでやっといてくれないか? 俺、これから本部のオンライン会議が入っちゃってさ」 「あ……はい。わかりました。やっておきます」
だけど、現実の僕――櫻井拓海(さくらいたくみ)が口にできるのは、いつもこんな、ありきたりで平坦な数文字だけだった。 本当は、僕のシフトはあと十分で終わるはずだった。今日は大学のレポートの締め切りが迫っていて、アパートに帰ってパソコンに向かわなければならない。頭の中では、『店長、それは業務時間外の押し付けですよ。僕の労働権利はどうなるんですか?』とか、『せめてもう少し申し訳なさそうな顔をしてください』といった言葉が、機関銃のように高速で組み立てられていた。 それなのに、僕の喉はきつく結ばれた紐のようになって、心の中の言葉を一切外に通してくれない。結局、愛想笑いすら浮かべられないまま、僕は重い台車を引いて文芸書コーナーへと向かう。21歳、大学3年生。僕はいつだって、自分の本音に裏切られながら生きている。
僕がアルバイトをしている「東和堂書店」は、駅ビルの中にある少し大きめの街の本屋だ。 平日の夕方、店内は独特の静寂に包まれている。新刊の束から漂うインクのツンとした匂いと、乾燥した紙が放つ微かな甘い香り。時折、パラパラとページをめくる乾いた音が響き、自動ドアが開くたびに駅の雑踏のノイズが遠くで小さく弾ける。 僕はその静けさが好きだった。本の中に書かれている膨大な言葉たちは、僕と同じように、声を大にして叫ばない代わりに、じっと誰かに見つけてもらうのを待っている気がしたからだ。
「よし、これで終わり……と」
黙々と段ボールから小説を引っ張り出し、背表紙のジャンルごとに棚へ並べていく。単調な作業は嫌いじゃない。誰とも話さなくていいし、自分の内側にいくらでも潜っていけるから。 けれど、その静かな殻を、いとも簡単に破ってくる存在がいた。
「拓海くん、お疲れ様! あれ、もしかしてそれ、店長に押し付けられちゃった?」
背後からかかった弾むような声に、僕の心臓がドクリと跳ねた。 振り返ると、そこにはエプロン姿の羽柴葵(はしばあおい)が立っていた。僕と同じ時期にここで働き始めた、他大学の同学年の女の子。 葵の髪が動くたびに、本屋のインク臭をかき消すような、シャンプーのほのかな柑橘類の香りが鼻腔をくすぐる。彼女の周りだけ、まるで照明のワット数が上がったかのように明るく見えた。
「あ、うん。まあ、ちょっとね。店長、会議みたいだから」
僕の口から出たのは、またしても濁らせたセリフだった。情けない。もっと別の言い方があるだろうに。 心の中の僕は、即座に叫ぶ。 『そうなの。店長っていつもこうなんだよ。でも、君がそうやって声をかけてくれたから、残業の憂鬱なんて一瞬で吹き飛んじゃったよ。今日もその笑顔が見られて嬉しいな』 ――そんなこと、口が裂けても言えるわけがなかった。
「もう、店長ったら相変わらず人使いが荒いんだから!」 葵はぷくっと頬を膨らませて、自分のことのように怒ってみせる。その仕草すら、絵画のように完成されていて、僕は視線をどこに置いていいか分からなくなる。 「あ、そうだ。これ、文庫の話題作のPOP。私、書いてみたんだけど……どうかな? 拓海くん、本詳しいから意見聞きたくて」
葵が差し出してきたのは、手書きの小さなイラスト付きのPOPカードだった。 そこには、丸っこくて可愛らしい文字で、今週発売された恋愛小説のキャッチコピーが書かれていた。色の使い方も綺麗で、手に取る人の目を引きそうな工夫が凝らされている。
「すごく、良いと思う。色も綺麗だし、文字も見やすいし……。これならきっと、手に取る人増えるよ」 「本当!? やったぁ、拓海くんにそう言ってもらえると自信湧くなぁ。じゃあ、さっそく並べてくるね!」
葵は満面の笑みを浮かべると、小走りで文庫コーナーへと戻っていった。彼女が歩くたびに、スニーカーが床を擦る軽い音がトントンと響く。 僕はその背中を、ただぼうっと見送ることしかできなかった。
本当は、もっと言いたいことがあったのだ。 『ただ綺麗なだけじゃなくて、君の選んだ「切ない夜に、一番に思い出してほしい人がいますか?」っていうフレーズがすごく胸に刺さるよ。この小説の核心をちゃんと捉えていて、君の感性は素晴らしいと思う』 そんな具体的な感想が、頭の中には溢れていたのに。僕の口から出たのは、小学生の読書感想文のような、薄っぺらくて無難なお世辞だけだった。
葵は、この書店の中で間違いなく一番の人気者だった。 誰にでも分け隔てなく明るく接し、気難しくて有名な常連の老人が来ても、彼女が笑顔で対応すれば誰もが目尻を下げた。ミスをして落ち込んでいる後輩がいれば、すぐに気づいてチョコレートを差し出すような優しさも持っている。 そんな太陽みたいな彼女に、僕のような、影の中に潜んで生きている人間が惹かれるのは、必然だったのかもしれない。
だけど、僕たちは決定的に違っていた。 彼女は自分の気持ちを素直に言葉にできる人間で、僕は心の中に言葉を溜め込むことしかできない人間だ。住む世界が違う。ただのバイト仲間。それ以上の関係になれるなんて、これまでの人生の経験上、あるはずがなかった。
「お先に失礼します……」 予定より三十分遅れて残業を終え、バックヤードで着替えを済ませた僕は、小さな声でそう言ってタイムカードを押した。 外に出ると、いつの間にか夜の帳が下りており、駅前広場は帰路を急ぐ人々と、色とりどりのネオンサインで溢れていた。冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。 画面を見ると、バイトのグループLINEに、葵から『今日も皆さんお疲れ様でした! 新刊コーナー、明日も頑張りましょう!』というメッセージと、可愛らしい猫のスタンプが届いていた。 他のメンバーが次々と「お疲れ様です!」「了解です!」とスタンプを返す中、僕は画面を見つめたまま、文字入力の画面で指を止める。
『葵さん、今日も遅くまでお疲れ様。POP、本当に素敵だったよ。明日、そのPOPで本が売れるのが楽しみだね。風邪ひかないように気をつけて帰ってね』
打ち込んでは、消す。 文字を打つだけなら、いくらでも雄弁になれるはずなのに、送信ボタンを押す直前になると、途端に怖くなる。こんなメッセージを送ったら、「気持ち悪い」と思われるんじゃないか。距離感を間違えていると、嫌われるんじゃないか。 結局、僕は打ち込んだ文字をすべてバックスペースキーで消去し、他の人と同じ、既製の「お疲れ様です」という一言だけのスタンプを送った。
夜の街の雑音にかき消されるように、僕は深く、誰にも聞こえないため息をつく。 僕の心の中の声は、いつになったら、この喉を通り抜けて誰かに届くのだろう。 その時の僕はまだ知らなかった。僕たちが働くあの静かな本屋の片隅で、葵が誰にも言えない秘密の、そして深い「寂しさ」を抱えていたことを。そして、僕たちの関係に、あまりにも残酷なタイムリミットが近づいていることを――。
第2章:ガラス越しの笑顔、その裏側
季節が秋から冬へと移り変わる一歩手前、夕方の書店はいつも少しだけ物悲しい空気をまとっている。 外の気温が下がるにつれて、自動ドアが開いたときに滑り込んでくる風の冷たさが増していく。店内に流れるジャズのBGMは相変わらず穏やかだけれど、文庫本をめくるお客たちの指先も、どこか寒そうに縮こまっているように見えた。
あの日から、僕と羽柴葵の距離は、ほんの少しだけ縮まっていた。 縮まった、と言っても、僕の頭の中の妄想に比べれば、それはアリの歩みのような微々たる進展に過ぎない。シフトが重なった日に「あ、拓海くんお疲れ様」と声をかけてもらえるようになり、閉店後のレジ締め作業を二人で並んで行う時間が増えた、というだけのことだ。
「……九万、八千、四百円。うん、これで計算ピッタリ。今日も一発で合うと、なんか小さな達成感あるよね」 コインの枚数を数え終えた葵が、レジの液晶画面を見つめながら、満足そうにふふっと笑う。 「そうだね。羽柴さんは手際がいいから、いつも助かるよ」 「もう、羽柴さんなんて堅苦しいってば。葵でいいよ、葵で。私たち、同い年のバイト仲間なんだし!」
葵はレジの引き出しをカチャリと閉めながら、拗ねたように唇を尖らせた。 その瞬間、僕の脳内は再び爆発的な速度で思考を巡らせる。 『葵。そう呼びたいよ、本当はね。毎晩、アパートの部屋で君のことを思い出すとき、心の中では何度もその名前を呼んでいるんだ。でも、僕みたいな日陰の人間が、君みたいな眩しい人の名前を呼び捨てにするなんて、どうしても気恥ずかしくて、声が震えてしまいそうなんだよ』 「あ……うん。じゃあ、今度から、そう呼ぶよ」 けれど、喉のフィルターを通過した僕の言葉は、まるで感情の抜け落ちたロボットのようにつっけんどんなものだった。葵は一瞬だけ意外そうな顔をしたけれど、すぐに「うん、約束ね!」と、いつものひまわりが咲いたような笑顔に戻った。
彼女はいつも完璧だった。 大学の講義をこなしながら、週に4日もこの本屋で働き、どんなに忙しくても、クレーマーのような客に理不尽な文句を言われても、決して笑顔を絶やさない。その明るさは本物で、周りの人間を義務感なくハッピーにする力があった。 だからこそ、僕は彼女をどこか自分とは違う世界の住民のように崇め、同時に、その完璧な笑顔の裏側に潜むものに、全く気づけていなかったんだ。
それは、ある雨の日の休憩時間のことだった。
その日は朝から冷たい雨が降り続いていて、書店のガラス窓は白く曇り、外を走る車のヘッドライトがにじんだ赤や黄色に滲んでいた。雨の日は客足が鈍る。店内はいつも以上に静まり返り、古い紙の匂いが湿気を含んで、妙に重たく感じられる日だった。
一時間の休憩をもらった僕は、バックヤードの奥にあるスタッフ用の休憩室へ向かった。 手前に置かれた自動販売機で、温かい緑茶の缶を買い、何気なく休憩室の厚いドアに手をかけた時だった。中から、低く抑えられた、でも張り詰めたような声が漏れ聞こえてきた。
「……分かってるよ。分かってるってば、お母さん」
それは、間違いなく葵の声だった。 いつも店のフロアで響く、鈴を転がすような弾んだトーンではない。低く、掠れていて、今にも擦り切れてしまいそうな、聞いたこともない声。 僕は思わずドアノブを握ったまま、硬直してしまった。中に入ることも、その場を立ち去ることもできず、ただ薄い扉越しに、彼女の言葉を拾ってしまう。
「分かってるよ……ちゃんとこっちの荷物、片付けたら帰るから。……約束したもんね。お父さんの体調のこともあるし、地元の会社、内定断ってないから大丈夫。……分かってる、分かってるから、もう何度も言わないで!」
最後の方は、ほとんど悲鳴に近かった。 カツン、とスマホを机に置くような鈍い音がして、会話が切れたことが分かった。 その後に聞こえてきたのは、微かな、でも決定的な「すするような呼吸の音」だった。彼女は泣いていた。あの、いつも誰かを全肯定するように笑う葵が、誰もいない暗い休憩室で、声を押し殺して涙を流している。
僕の胸の奥が、冷たい鋭利な刃物で突き刺されたように激しく痛んだ。 心の中の僕は、すぐにでもドアを押し開けて、彼女の元へ駆け寄りたがっていた。 『どうしたの? 何があったの? 地元に帰らなきゃいけないの? お父さんの具合が悪いの? 君は本当は、ここにいたいんだよね。就職だって、本当は東京の行きたい会社があったんじゃないの? 一人でそんなものを抱え込まないでよ。僕でよければ、何でも聞くから。何もできないかもしれないけど、君が泣き止むまで、ずっと隣にいるから』
文字通り、足が動きそうになった。 だけど、僕の臆病な現実の身体は、床に接着剤で固定されたように一歩も動かなかった。 もし今、僕がここに入っていったら、彼女はどう思うだろう。「聞かれたくなかったはずの秘密」を、大して親しくもないバイト仲間に盗み聞きされたのだ。プライドを傷つけ、彼女をさらに惨めな気持ちにさせてしまうのではないか。それに、本音を引き出すような器用な会話が、僕にできるわけがない。
僕は結局、情けないことに、音を立てないようにゆっくりとドアノブから手を離した。 そして、踵を返し、バックヤードの薄暗い通路を戻っていった。手の中にあった温かい緑茶の缶が、いつの間にかひどく冷たく感じられた。
三十分後、休憩を終えてフロアに戻ってきた葵は、いつもと全く変わらない「羽柴葵」だった。 目の周りが少しだけ赤くなっているようにも見えたけれど、彼女は僕と目が合うと、「拓海くん、さっきのおすすめ文庫、もう売り切れちゃったよ! すごいね!」と、弾むような声で微笑みかけてきた。
その笑顔を見た瞬間、僕は言葉を失った。 彼女は、泣いていた。さっきまで、あんなに苦しそうに、絶望に耐えるような声を上げていたのに、フロアに出た瞬間に「完璧なヒロイン」の仮面を被って見せている。それは彼女の強さであると同時に、誰にも弱音を吐けないという、あまりにも深い孤独の裏返しだった。
「……うん、良かったね。羽柴さんのPOPのおかげだよ」 僕は、彼女のその痛々しいほどの嘘に、乗っかることしかできなかった。 『嘘をつかないでよ、葵。無理して笑わないでよ。本当は今にも泣き出しそうなのに、どうしてそんな風に笑えるの? 僕に、頼ってよ……』 心の中の声は、僕の肋骨を内側から激しく叩いていたけれど、ついにその日の閉店まで、僕の口から本音が溢れ出ることはなかった。
ガラス窓を打つ雨の音が、僕たちの間の沈黙をどこまでも重く、冷たく埋めていく。 彼女が抱える「地元へ帰らなければならない」という現実。それが、僕たちに残された時間の短さを物語っていることに、僕は気づき始めていた。
第3章:突然のカウントダウン
冬の足音は、ある日突然、インクの匂いの中に紛れ込んでやってきた。 11月も半ばを過ぎると、書店の入り口にはクリスマスソングのオルゴールが流れる特設コーナーが設置され、赤や緑の華やかなリボンで飾られた絵本や、きらびやかな手帳が並び始める。街全体が浮き足立つようなその華やかさが、僕にはどうしようもなく他人のもののように思えて、少しだけ居心地が悪かった。
あの日、雨の休憩室で葵の涙と、彼女が抱える「地元へ帰る」という現実を知ってから、僕の心はずっと凪ぐことのない泥濘の中にあった。 シフトが重なるたび、僕は彼女の横顔を盗み見ては、胸の奥で言葉の破片を組み立てていた。 『葵、本当は帰りたくないんだよね。あの時、泣いていたよね。僕にできることがあれば、何でも言ってほしい』 そんな、喉まで出かかった本音は、彼女の「拓海くん、お疲れ様!」といういつも通りの眩しい笑顔にぶつかるたび、粉々に砕け散って僕の胃の底へと沈んでいくのだった。結局、僕は彼女の痛々しいほどの強さに甘え、何も知らない「ただの優しいバイト仲間」を演じ続けることしかできなかった。
自分の臆病さに、これ以上ないほどのタイムリミットが突きつけられるとも知らずに。
「あ、みんな、レジ締め終わったか? ちょっと集まってくれ」
それは、いつもと変わらない平日の閉店後のことだった。 蛍の光が消え、自動ドアの電源が落とされた静かな店内で、店長が手を叩きながら僕たちを集めた。残っていたのは、僕と、大学生の先輩の男子二人、パートの主婦の木村さん、そして――葵だった。
みんながレジの前にゆるやかに円を描く。葵はいつも通り、エプロンの紐を律儀に結び直しながら、小首をかしげて店長を見つめていた。その表情には、何の陰りもみられない。
「急な連絡で悪いんだけどさ。うちの看板娘の羽柴がさ、実は今月一杯でここを辞めることになったんだ」
店長が、まるで「明日は雨が降るらしい」とでも言うような軽い調子でそう言った。
一瞬、店長が何を言っているのか分からなかった。 耳の奥で、キィンという不快な金属音が鳴り響き、周りの音が急に遠ざかっていく。新刊の紙の匂いが、急に喉を詰まらせるような息苦しい塊に変わった。
「ええっ!? 羽柴ちゃん辞めちゃうの!? うそ、困るわよー!」 「マジすか!? 羽柴さんいないと、この店のテンションめちゃくちゃ下がりますよ!」
木村さんや先輩たちが、驚きと惜しむ声を上げる。 円の中心で、葵は申し訳なさそうに、でも、いつもの完璧な笑顔を浮かべて頭を下げていた。
「すみません、急に決まっちゃって……。ちょっと実家の事情で、地元に戻らなきゃいけなくなっちゃって。就職も、向こうの会社に行くことになったんです。ギリギリの報告になっちゃって、本当にごめんなさい!」
彼女の声は、驚くほど滑らかだった。 あの雨の日に聞いた、擦り切れて今にも壊れそうだった悲鳴のような声の欠片なんて、どこにも見当たらない。彼女は完璧に、みんなに愛される「羽柴葵」として、前向きな別れを演出していた。
僕は、言葉を失ったまま、ただ立ち尽くしていた。 心の中の僕は、喉がちぎれるほどの声で叫んでいた。 『知ってる。実家の事情なんて、本当は君が望んだことじゃないって知ってるよ。あの日、君が休憩室で泣きながら電話していたのを、僕は聞いてしまったんだ。本当はここに残りたいのに、無理して笑っているんだろう? どうしてそんなに平気な顔ができるんだよ。嘘だろ、葵。今月中って、あと二週間しかないじゃないか。そんなの、あんまりだ……!』
だけど、現実の僕の唇は、寒さで凍りついたように1ミリも動かなかった。 それどころか、視線を泳がせる僕の様子に気づいた葵が、僕の方を向いて「拓海くん、びっくりさせてごめんね」と、いたずらっぽく笑いかけてきたのだ。
「拓海くんには、たくさん本のポップのこととか教えてもらったのに、途中で抜けちゃってごめんね。残り二週間、最後までしっかり働くから、よろしくね!」 「あ……うん。寂しく、なるね。……頑張って、向こうでも」
出た。まただ。 僕の口から出たのは、世界で一番薄っぺらくて、世界で一番どうでもいい、お決まりの定型文だった。 頑張って? 向こうでも? 僕は彼女に遠くへ行ってほしいのか? 違う。行くなと言いたいんだ。ここにいてくれと、僕の隣で笑っていてくれと言いたいんだ。それなのに、僕の喉は、彼女の嘘に合わせるように、またしても僕の本音を裏切った。
「よし! じゃあ再来週の土曜日、羽柴の最終出勤日の夜に、駅前の居酒屋で送別会やるからな! みんなシフト調整しといてくれよ!」 店長がパンと手を叩き、集合は解散になった。
バックヤードに戻り、私服に着替える間も、僕の手は小刻みに震えていた。 壁に貼られた11月のシフト表を見る。葵の欄には、確かに11月30日を最後に、それ以降のマス目には無慈悲な斜線が引かれていた。 僕が何も言えないでいる間に、世界は、時間は、容赦なく彼女を僕から引き離そうと動き出していたのだ。
僕は、彼女にとって「その他大勢のバイト仲間の一人」に過ぎなかった。 あの日、彼女の涙の秘密を知って、少しだけ特別な存在になれたような気がしていたのは、僕の傲慢な勘違いだった。彼女は僕に何も相談してくれなかったし、みんなと同じタイミングで、同じように笑顔で別れを告げられた。その現実が、何よりも重く、僕の胸にのしかかった。
バイト先を出ると、夜の空気は完全に冬の冷たさを帯びていた。 吐き出す息が、うっすらと白く濁っては、街灯の光の中に消えていく。
「拓海くん、お疲れ様!」
振り返ると、マフラーに顔を埋めた葵が、足早に僕を追いかけてきていた。 駅へと続く並木道。街路樹の葉はすっかり落ちて、裸の枝が夜空に突き刺さっている。
「……あ、羽柴さん。お疲れ様」 「もう、葵だってば。あと二週間しかないんだから、一回くらい呼んでよ」 葵は白い息を吐きながら、少し寒そうに身を縮めて笑った。 「……ごめん」 「ううん、冗談だよ。……ねえ、拓海くん。私がいなくなっても、あの文芸書の棚、ちゃんと綺麗にしといてね。拓海くんの並べ方、すごく見やすくて好きだったんだ」
彼女は、まるで遠くへ引っ越す幼馴染のような、切ない目をしていた。 街灯のオレンジ色の光が、彼女の瞳の中に小さな灯りを灯している。その瞳が、微かに潤んでいるように見えたのは、冬の風が冷たいせいだけだろうか。
『今言え。今言わなきゃ、本当に終わるぞ。彼女は今、寂しいんだ。強がっているだけなんだ。お前がその声を届かせなくて、誰が彼女の仮面を剥いでやるんだよ!』
心の中の僕は、僕の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶっていた。
「うん。……ちゃんと、やっておくよ。葵さんも、身体に気をつけてね」 だけど、僕が口にしたのは、やっぱりどこまでも安全な、距離を置いた言葉だけだった。
葵は一瞬、何とも言えない、諦めたような、寂しそうな笑みを浮かべた。 「うん。ありがとう。……じゃあ、また明日ね」
彼女は小さく手を振ると、改札口の方へと歩いていった。 その背中が、駅へと吸い込まれる人の波の中に消えていくのを、僕はただ見つめることしかできなかった。
あと、二週間。 僕の心の中の声は、このまま誰にも届かないモノローグのまま、冬の寒さに凍りついて消えてしまうのだろうか。喉の奥が、焼け付くように熱かった。
第4章:最後の夜、閉まるシャッター
11月30日。ついに、その日がやってきてしまった。 午後8時を過ぎた書店の中は、いつも以上の冷気に満ちているように感じられた。自動ドアがひっきりなしに開き、駅へと急ぐ人々が吐き出す白い息が、一瞬だけ店内の暖房に溶けて消える。新刊コーナーに並ぶ本の背表紙が、天井の蛍光灯を反射して、どこか冷ややかに光っていた。
今日が、葵の最後の出勤日だった。 バイトの仲間たちは、みんな1時間前に店長と一緒に駅前の送別会会場へと向かっていた。店長から「櫻井、悪いけど最後の戸締まりとレジ締め、羽柴と一緒にやってから合流してくれ!」と頼まれた時、僕の心臓は痛いほどに跳ね上がった。 神様がくれた、最初で最後の、彼女と二人きりの時間。 それなのに、バックヤードからフロアに戻る僕の足取りは、まるで鉛でも仕込まれているかのように重かった。
「……よし、これで児童書コーナーの整理も終わり!」
静まり返った店内に、葵の弾むような声が響いた。 振り返ると、彼女は棚の絵本を綺麗に揃え終え、満足そうにエプロンのポケットに手を突っ込んでいた。その顔には、いつも通りの、何の憂いもない笑顔が浮かんでいる。僕が2週間ずっと胸を痛め、苦しんできたことなんて、彼女の引き締まった表情の前では何の意味も持たないように思えて、また口が重くなる。
「お疲れ様、葵さん。……あ、いや、葵」 慣れない呼び方に、僕の喉が少しだけ震えた。葵は一瞬、目を丸くしたけれど、すぐに嬉しそうに目を細めた。 「あはは、やっと呼んでくれた! ありがとう、拓海くん」
レジカウンターの奥で、最後の売上金を金庫に移す作業を黙々と進める。10円玉や100円玉が擦れ合うチャリン、チャリンという金属音が、静かな店内に妙に大きく響いた。 心の中の僕は、今度こそ破裂しそうなほどの声を上げていた。 『行かないでくれ。地元に帰るのが親のためだって分かっているけど、君がここにいたいのも知っているんだ。僕じゃ頼りないかもしれない。自分の気持ちすらまともに言えない男だけど、でも、君が遠くへ行ってしまうなんて耐えられない。行くな、葵。僕のそばにいてくれ』
何度も、何度も、その言葉が喉の裏側までせり上がってきた。 だけど、僕の唇は冷たく閉ざされたままだ。もし今そんなことを言ったら、彼女のこれまでの覚悟を台無しにしてしまう。彼女が笑顔で旅立とうとしているのを、僕の我が儘で汚してしまう。そんな言い訳が、頭の中で何十周も駆け巡り、僕の声を奪っていく。
「拓海くん、これ」
レジ締めを終えた僕の前に、葵が小さな紙袋を差し出してきた。 受け取ると、中には一冊の文庫本が入っていた。僕がずっと前に「これ、面白いよ」と彼女に勧めた、お互いに大好きな作家の恋愛小説だった。
「これ、私からのプレゼント。……っていうか、形見分けかな?」 葵は少しだけはにかむように笑った。 「私ね、拓海くんに出会えて本当によかったって思ってるよ。本のこと、たくさん教えてくれたし、私が落ち込んでる時も、拓海くんが黙って隣で作業してくれてるだけで、すごく安心したんだ。向こうに行っても、この本を見るたびに、この本屋のことと、拓海くんのこと、思い出すね」
その言葉は、完璧な「お別れの挨拶」だった。 僕は、渡された紙袋をきつく握りしめることしかできなかった。指先が白くなるほど、紙の感触が皮膚に食い込む。 『違う。そんな綺麗な思い出にしないでくれ。僕は君に忘れられたくない。思い出すだけじゃ嫌なんだ。今すぐその本を開いて、君が何を考えているのか知りたい。でも、今開いたら、本当に涙が止まらなくなってしまう』
「……ありがとう。大切にするよ。葵も、向こうで頑張ってね」 まただ。僕は、またしても世界で一番安全な、誰も傷つけない代わりに誰も救わない言葉を選んだ。
「うん! ありがと。じゃあ、私はお先に着替えて、駅前の居酒屋に向かってるね。拓海くんも、戸締まり終わったらすぐ来てね!」 葵は小さく手を振ると、バックヤードへと消えていった。
数分後、私服に着替えた葵が、マフラーを巻いて店から出ていく。 「じゃあね、拓海くん!」 「うん、また後で」
ガガガガガ、と重い金属音を立てて、書店の入り口のシャッターが下りていく。 シャッターの隙間から見えた葵の靴が、完全に隠れ、ガチャンと床にぶつかって閉まった瞬間、僕たちの世界は物理的に、完全に分断された。
静まり返った店内に、僕一人だけが残される。 事務室の机の上に置かれた、彼女から貰った紙袋。僕は吸い寄せられるようにその本を取り出し、パラパラとページをめくった。
その時、本の栞(しおり)代わりに挟まれていた、一枚の小さなメモ用紙が床に落ちた。
拾い上げて、心臓が止まるかと思った。 そこには、葵の丸っこい、でも少し震えた文字で、こう書かれていた。
『本当は、ずっとここにいたかった。拓海くんと一緒に、もっとたくさんお話がしたかったな。私の「本当の声」、拓海くんには届いてた?』
あの日、雨の休憩室で聞いた彼女の泣き声が、脳内で鮮烈に蘇った。 彼女は、気づいてほしかったんだ。自分が無理して笑っていることに。誰かに「行くな」と言ってほしかったんだ。そして、その誰かが、僕であってほしいと、彼女も願ってくれていたのかもしれない。それなのに、僕は自分の臆病さを「優しさ」という都合のいい言葉で包み隠し、彼女を一人できついシャッターの向こう側へ追いやったのだ。
「……バカだ、僕は」
激しい後悔が、津波のように押し寄せてきて、視界が急激に歪んだ。 手の中のメモが、僕の涙で小さくにじんでいく。 『ふざけるな、櫻井拓海。お前は何のために、心の中でそんなにたくさんの言葉を持ってるんだよ。出さない言葉なんて、無いことと一緒じゃないか。今行かなきゃ、今叫ばなきゃ、お前は一生、心の中だけの主人公で終わるぞ!』
ガタ、と椅子を蹴立てて立ち上がった。 送別会の居酒屋じゃない。彼女はきっと、もう駅のホームに向かっている。実家へ戻るための荷物をまとめるために、今夜の内に地元行きの最終列車に乗るはずだ。
僕はカギを引っ掴むと、まだ完全に落としていなかった書店の裏口のドアを飛び出した。 冬の凍てつくような夜風が、僕の顔を激しく叩く。 心の中の声が、僕の身体を突き動かしていた。もう、一秒も立ち止まってはいられない。
第5章(最終章):僕は心の声で前に進む
冬の夜気は、肺の奥を刃物で抉るように冷たかった。 駅へと続く上り坂を、僕はなりふり構わず走っていた。スニーカーがアスファルトを蹴るたびに、冷え切った空気が耳元でゴーゴーと鳴り響く。大学の講義と本屋の往復しかしてこなかった僕の身体は、すぐに悲鳴を上げ始めた。 呼吸が激しく乱れ、喉の奥が鉄の味で満たされていく。脇腹に差し込むような激痛が走り、視界がチカチカと明滅する。
――それでも、足は止めなかった。止めるわけにはいかなかった。 『走れ、櫻井拓海。お前は21年間、ずっとそうやって傷つかない場所に逃げ込んできたんだろう。本音を言えば嫌われるかもしれない、拒絶されるかもしれない。そうやって自分を守るために、心の中だけで叫んで、現実では物分かりの良いクズを演じてきた。その結果がこれだ。彼女は今、お前が閉めたシャッターの向こう側で、誰にも届かないSOSのメモを残して消えようとしているんだぞ!』
頭の中で、もう一人の僕が怒号のように叫び続けている。その通りだ。僕はいつだって、心の中の饒舌さに溺れて、現実の一歩を踏み出さない臆病者だった。 だけど、あのメモを見てしまった今、もう自分を騙すことはできない。 僕は、葵に生きていてほしい。僕の隣で、あの痛々しい嘘の笑顔ではなく、心から笑っていてほしいんだ。
駅前広場に飛び込むと、そこは家路を急ぐサラリーマンや、光り輝くイルミネーションの前で写真を撮る恋人たちで溢れ返っていた。 自動改札機を通り抜け、階段を2段飛ばしで駆け上がる。地元へと向かう長距離列車のホーム。発車を告げる無機質なアナウンスが、冷たいスピーカーの音割れと共に響き渡っていた。
「……葵!」
ホームのベンチの近く、大きなキャリーケースを傍らに置き、マフラーに顔を埋めて佇んでいる後ろ姿を見つけた。 その肩が、寒さのせいか、それとも孤独のせいか、小さく震えている。
僕は残ったすべての力を振り絞って、彼女の名前を叫んだ。 「葵――っ!!」
振り返った葵の目が、驚愕に見開かれる。 その瞳は、やはり濡れていた。街灯の光を反射して、彼女の頬にはっきりと一筋の涙の跡が光っている。 「拓海、くん……? どうして、ここに……。送別会は……?」
僕は彼女の前にたどり着くと、両膝に手を突いて、激しく肩を上下させた。 ヒュー、ヒューと情けない呼吸の音が喉から漏れる。汗が顎の先から滴り落ちて、冷たいコンクリートの床に染みを作っていく。何も喋れない僕を、葵は戸惑ったように見つめていた。
「これ……っ、これ、読んだから……!」 僕はポケットから、あのクシャクシャに握りしめてしまったメモ用紙を突き出した。葵の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。
「あ……それ、見ちゃったんだ。ごめんね、変なこと書いて。忘れて、お願い。私、ただの我儘で……」 葵は慌てて笑顔を作ろうとした。あの、いつもの、完璧で、誰も傷つけないための、痛々しい偽物の笑顔を。
その笑顔を見た瞬間、僕の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
「嘘をつくな!!」
ホームに、僕の怒鳴り声が響き渡った。周りの乗客がビクリとして僕たちを見る。生まれて初めて、僕は現実の世界で、こんなに大きな声を張り上げていた。 葵は言葉を失い、丸い目をさらに大きくして僕を見つめている。
「頑張れなんて、思ってない……っ!」 一度決壊した僕の喉は、もう言葉を止めてくれなかった。綺麗に組み立てられた脳内の長編小説なんかじゃない。泥臭くて、まとまりがなくて、涙と息にまみれた、僕の「生の言葉」が溢れ出してくる。
「地元で頑張ってなんて、嘘だ! 僕は、君に遠くへ行ってほしくない! 実家の事情も、君が無理して笑ってるのも、全部知ってたのに……何も言えなくてごめん! 自分が傷つくのが怖くて、ずっと優しいバイト仲間のフリをしてたんだ!」
一歩、葵に歩み寄る。彼女の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していく。
「本当は、毎日君に会えるのが嬉しかった! 君の書くPOPが大好きで、君のシャンプーの匂いが好きで、君が笑ってくれるだけで、僕の灰色だった大学生活が全部、光って見えたんだ! 君の本当の声は、僕に届いてた。届いてたのに、応えられなくてごめん……!」
心臓が破裂しそうだった。恥ずかしさも、恐怖も、もうどこにもない。ただ、目の前の彼女に、この想いを届けたいという本能だけが僕を突き動かしていた。
「勝手に一人で諦めるなよ……! 遠くに行くな、葵! 僕のそばにいてくれ! 綺麗なお別れの挨拶なんてクソ喰らえだ! 僕は、君のことが、好きなんだ――!!」
駅のホームに、発車のベルがけたたましく鳴り響いた。 だけど、僕たちの世界からは、すべての雑音が消え去っていた。
葵は、両手で顔を覆って、その場に泣き崩れた。 いつも完璧だったヒロインの仮面が、粉々に砕け散り、そこにはただの、21歳の、泣き虫で寂しがり屋な女の子がいた。
「……遅いよ」 葵は、しゃくり上げながら、掠れた声で僕をなじった。 「遅いよ、拓海くん……。私、ずっと待ってたんだよ? 私が無理して笑ってるの、拓海くんだけは気づいてくれてるって、ずっと思ってた……。行くな、って言ってほしかった……っ!」
僕は、泣きじゃくる彼女の身体を、衝動的に強く抱きしめていた。 マフラー越しに伝わる葵の体温が、僕の冷え切った身体にじわじわと染み込んでいく。彼女の小さな肩が、僕の胸の中で激しく揺れていた。
「ごめん。もう二度と、本音を隠さない。心の声を、全部君に伝えるから」 「本当に……? 嘘ついたら、許さないからね……」 葵は僕のコートの胸元をごつごつと小さな拳で叩きながら、子供のように泣き続けた。
列車が、僕たちの横をけたたましい音を立てて通り過ぎていく。けれど、彼女はその列車には乗らなかった。キャリーケースは、ホームの隅に置かれたままだ。
抱きしめた腕を少しだけ緩めると、葵が涙で濡れた顔を上げて、僕を見上げた。 鼻の頭を真っ赤にして、泣きべそをかいているその顔は、これまでのどんな完璧な笑顔よりも、僕の目には愛おしく、美しく映った。
「私、お父さんやお母さんと、もう一回ちゃんと話してみる。完全に地元に戻るんじゃなくて、東京で就職して、仕送りをする方法だってあるかもしれない。自分の人生だもん、私、諦めたくない」 葵の瞳には、誰かに押し付けられた未来ではなく、自分の足で歩もうとする、本当の強い光が宿っていた。
「うん。僕も一緒に考える。もう、一人で抱え込ませないから」
葵は、涙を指先で拭うと、今度は本当に、心からの、少し照れくさそうな笑顔を僕に向けてくれた。 「ふふ、拓海くん、今の告白、すっごく大声だったね。周りの人、みんな見てたよ?」 「う……嘘、でしょ……」 急に現実に戻った僕は、一気に顔が熱くなるのを感じた。心の中の僕は今更『やばい、大衆の面前でなんて破廉恥な真似を!』と大騒ぎしている。 そんな僕を見て、葵は鈴を転がすような、いつもの、でも今までで一番綺麗な声で笑った。
冬の夜空はどこまでも澄み渡り、街のネオンが僕たちを祝福するように輝いている。 僕の心の中の声は、もう届かないモノローグじゃない。 これからは、大好きな彼女と共に、新しい言葉を現実の世界に刻んでいくんだ。 僕は、自分の声で、最愛の人の手を握り締めながら、確かに一歩、前に進んだ。
(完)

