小説作成しました。タイトル:『腐蝕の聖域』

タイトル:『腐蝕の聖域』
第1章 灰色の日常と埋火
雨は汚物を洗い流さない。ただアスファルトの染みを濃くし、街の悪臭を湿度と共に大気中に停滞させるだけだ。
午前二時。新宿の裏路地にある公衆便所。
私はゴム手袋をはめた手で、便器の縁にこびりついた吐瀉物を拭き取っていた。安っぽい芳香剤のラベンダーの香りと、酸っぱい胃液の臭いが混ざり合い、鼻腔の奥で粘りつくような不快感を生んでいる。
私の名は木島。かつて別の名前を持っていたが、今の私にはこの清掃員としての識別コードのような姓だけで十分だ。年齢は四十五になったはずだが、鏡に映る男は干からびた老人に見える。
モップを絞りながら、私は自分が呼吸をしているだけの肉塊だと感じる。
十年だ。あの日から、十年が経った。
記憶の蓋は、錆びついて開かないようにしてある。だが、ふとした瞬間に隙間から血の匂いが漏れ出す。
仕事から帰宅した私が目にしたもの。リビングの白い床を赤く染め上げた妻の美佐子と、まだ五歳だった娘の結衣。
そして、その血の海の真ん中で、クレヨンを握りしめたまま呆然と座り込んでいた男。
男は私を見上げ、笑ったのだ。まるで、出来の悪い落書きを見せる子供のような無邪気さで。
「僕の中にいる悪い虫が、全部やったんだよ」
裁判での光景は、モノクロ映画のように淡々としていた。
心神喪失。責任能力なし。
刑法第三十九条という高い壁が、私と「正義」の間を分断した。男――曽根明(そねあきら)は、医療少年院のような施設へ送られ、私の前から消えた。法は彼を「患者」として扱い、私を「不運な被害者」として慰めるだけで終わらせた。
私は職を辞し、酒に溺れ、親族とも縁を切り、気づけばこの街の吹き溜まりに流れ着いていた。復讐などという熱量の高い感情は、日々の労働とアルコールで摩耗し、灰色の燃えかすになっていたはずだった。
作業を終え、「清掃中」の看板を片付ける。
雨脚は強まっていた。私は雨宿りがてら、路地裏の深夜営業の定食屋に入った。
客はまばらだ。競馬新聞を広げるタクシー運転手と、夜職上がりの虚ろな目をした女が二人。
私は一番安い中華そばを注文し、壁に掛けられた古びた液晶テレビを何気なく見上げた。
深夜のドキュメンタリー番組が流れていた。
『元受刑者たちの社会復帰を支援する、現代の駆け込み寺』
そんなテロップと共に、清潔なスーツに身を包んだ男が画面に映し出された。
縁なしの眼鏡、整えられた髪、穏やかで知性的な語り口。
NPO法人『光の家』代表、牧村静(まきむらしずか)。
アナウンサーが彼を称賛する。「彼自身も過去に過ちを犯し、深い贖罪の念からこの活動を始めた聖人です」と。
私は箸を止めた。麺から立ち上る湯気の向こうで、その男が微笑む。
画面の下に小さく出されたプロフィール紹介。「更生」の二文字。
呼吸が止まるかと思った。
顔立ちは変わっている。十年という歳月と、意図的な整形、あるいはにじみ出る「善人」の雰囲気が彼を別人に変えていた。
だが、目は嘘をつかない。
カメラのレンズ越しに向けられたその瞳の奥にある、冷たく濁った光。あれは、血の海の中で私を見上げていたあの男の目だ。
――曽根だ。
全身の血液が逆流し、沸騰する音が聞こえたような気がした。
牧村静と名乗るその男は、画面の中でアナウンサーの質問に答えていた。
「罪を憎んで人を憎まず。誰にでもやり直すチャンスはある。私はそう信じています」
吐き気がした。便所の掃除をしている時以上の、強烈な嘔吐感。
私の妻と娘を肉塊に変えたあの手が、今は弱者を救う手として社会に差し伸べられている。
社会は彼を許したのか? あんな怪物を、「更生」という魔法の言葉一つで?
震える手でコップの水をあおった。
許さない。
神も、法律も、社会も彼を許したとしても、私の記憶だけは彼を許さない。
私の人生における時間は、十年前で止まったままなのだ。あいつがのうのうと未来を語っていることが、耐え難い冒涜だった。
中華そばには手を付けず、私は千円札をテーブルに叩きつけて店を出た。
外の空気は冷たかったが、私の体の芯には黒い炎が宿っていた。それは灰の下でずっと燻っていた埋火だ。風が吹き込み、今、勢いよく燃え上がろうとしている。
雨に打たれながら、私は携帯電話を取り出した。画面の明かりだけが、暗闇の中で私を照らしている。
検索窓に打ち込む文字は決まっている。
『NPO法人 光の家 牧村静』
画面に並ぶ「賞賛」「慈善」「救済」の文字の羅列。
私は口の端を歪めた。十年ぶりに、生きる目的ができたのだ。
あの聖人の仮面を剥ぎ取り、その下に隠された腐った素顔を白日の下に晒してやる。
そして最後には――。
私は歩き出した。もはや足取りは重くない。
向かう先は、あの男がいる「光」の場所。だが私が運ぶのは、救いようのない深い闇だ。
第2章 善意という名の迷彩
NPO法人『光の家』の本部は、湾岸エリアの古い倉庫街をリノベーションした建物にあった。
コンクリート打ちっ放しの壁は白く塗装され、蔦植物が芸術的に絡まっている。入り口には「Well-being for All」と書かれたスタイリッシュな看板。そこには、私が知る場末の薄汚さとは無縁の、人工的な清潔さが漂っていた。
私は「田中」という偽名を使い、ボランティアスタッフとして登録した。
採用は呆気ないほど簡単だった。履歴書の空白期間など誰も気にしない。彼らが必要としているのは、無償で動き、口答えをしない手足だけだ。
私が割り当てられたのは、企業や個人から寄せられた支援物資の仕分け作業だった。
「田中さん、こっちの段ボールをお願い。賞味期限が近い缶詰は『配布用』へ。ブランド物の衣類や新品の家電は『保管用』へ回して」
指示を出したのは、若手のスタッフだった。
私は黙々と手を動かしながら、この施設の奇妙な「物流」を観察した。
『配布用』の箱には、廃棄寸前の古米や、凹んだ缶詰、ボロボロの毛布が放り込まれる。一方、『保管用』に回された高級ダウンジャケットや最新のタブレット端末は、裏口から別の業者のトラックへと積み込まれていく。
寄付品の横流し。
これが「光」の正体か。だが、こんな小銭稼ぎは序の口に過ぎなかった。
数日後、私は施設の奥にある「居住支援エリア」の清掃を命じられた。
ここは、住居を失った人々を一時的に保護するシェルターだという触れ込みだ。しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、あの公衆便所と同じ臭いがした。
狭い部屋に二段ベッドが押し込められ、二十人ほどの男たちがすし詰めにされている。彼らの目は死んだ魚のように濁り、生気がない。
「おい、タバコ一本くれよ」
痩せこけた老人が私にすがりついてきた。その腕には、いくつもの青あざがあった。
「……ここでは、食事は出るのか?」
私が小声で尋ねると、老人は怯えたように視線をさまよわせた。
「飯は出る。だが、通帳も印鑑も、生活保護の申請書類も、全部『先生』に取り上げられちまった。俺たちはここで飼われてるだけだ。逃げようとした奴は……」
老人の言葉は、廊下に響いた革靴の足音によって遮られた。
カツ、カツ、カツ。
正確なリズムを刻むその音に、部屋の空気が凍りついた。男たちは一斉に姿勢を正し、あるいは布団を被って震えだす。
「やあ、皆さん。快適に過ごしていますか?」
現れたのは、牧村静――かつての曽根明だった。
仕立ての良い紺色のスーツ。顔には慈愛に満ちた微笑みを貼り付けている。だが、その目は部屋の惨状を見ているようで、何も見ていない。彼にとってここの人間は、風景の一部か、あるいは備品なのだろう。
私の心臓が早鐘を打つ。
殺したい。今ここで、隠し持ったドライバーでその頸動脈を突き刺せば、すべてが終わる。
ポケットの中の柄を握りしめた。汗で滑りそうだ。
その時、牧村の視線が私に向いた。
「おや、見ない顔ですね」
彼は私に歩み寄ってきた。十年前、私の妻を殺した男が、今は私の目の前で、石鹸の香りを漂わせている。
「新入りのボランティアの田中です」
喉から搾り出した声は、怒りで震えていたかもしれない。だが、牧村はそれを緊張と受け取ったようだ。
「そうですか。汚い仕事ばかりですみませんね。でも、誰かがやらなければならない」
彼は私の肩に手を置いた。
その感触に、吐き気がこみ上げる。皮膚の下を虫が這いずり回るような悪寒。
「ちょっと、手伝ってもらえますか? 田中さん」
私は彼に連れられ、施設最上階の代表室へと入った。
下の階の地獄絵図とは裏腹に、そこは洗練されたオフィスだった。窓からは東京湾が一望できる。
「そこにある書類の山をシュレッダーにかけてくれませんか。個人情報なものでね」
牧村は革張りのソファに深く腰掛け、ミネラルウォーターを口にした。
私はシュレッダーを回しながら、彼の様子を伺った。彼は電話で誰かと話している。
「ええ、先生。例の件、うまく処理しておきました。はい、入所者の数ですか? 水増ししておけば助成金は満額おりますよ。……ええ、彼らは文句を言いません。私が『救って』やったんですから」
電話を切ると、牧村は窓の外を見下ろして独り言のように呟いた。
「人間というのは、弱い生き物ですねえ」
彼は私に話しかけているのか、それとも自分自身に語っているのか。
「弱者には二種類いるんですよ。搾取されることに気づかない馬鹿と、気づいていても縋るしかない哀れな家畜。田中さん、君はどっちに見えますか?」
彼は私の方を振り返り、薄く笑った。その笑顔は、十年前、血の海の中で見せたあの無邪気な笑顔と重なった。
「私はね、彼らに役割を与えているんです。『可哀想な人』という役割をね。社会はその役割を見て安心し、金を出す。私はその舞台装置を作っている。これこそが究極の福祉だと思いませんか?」
こいつは、狂っている。
いや、もっと質(たち)が悪い。
十年前は「心神喪失」という名の狂気だったかもしれない。だが今の彼は、極めて理性的かつ論理的に、邪悪なシステムを構築している。
悪意などない。彼にあるのは、他人をモノとしてしか認識できない、圧倒的な共感性の欠如だ。
「……素晴らしいお考えですね」
私は感情を殺し、同意したふりをした。
「そうでしょう? 理解者がいて嬉しいですよ」
牧村は満足げに頷き、再び書類に目を落とした。
私はシュレッダーの轟音に紛れて、自分の殺意を噛み殺した。
今殺すだけでは足りない。
この男が築き上げた、この欺瞞に満ちた「城」ごと崩れ落ちる様を見せてやらなければ。彼が最も大切にしている「社会的地位」と「成功」を粉々に砕いてからでなければ、妻と娘の無念は晴らせない。
私はポケットのドライバーから手を離した。
まずは、この城の設計図――彼が隠している汚職と犯罪の証拠を掴むことだ。
その時、ドアがノックされ、一人の若い女性職員が入ってきた。
彼女の顔色は悪く、その瞳には怯えの色が見て取れた。
第3章 共犯者たち
その女性職員の名は、真宮陽子(まみやようこ)といった。
まだ二十代半ばだろうか。疲れ切った顔で、給湯室の隅でカップ麺を啜っている姿をよく見かける。彼女は、この歪な城の中で唯一、まともな神経を残している人間に見えた。だからこそ、一番苦しんでいるようでもあった。
ある雨の夜、私は残業をしていた彼女に缶コーヒーを差し出した。
「田中さん……ありがとうございます」
彼女は驚いたように顔を上げ、弱々しく微笑んだ。
「随分と遅いですね。牧村代表はもう帰られたようですが」
「ええ……。明日の『定例会』の準備が終わらなくて」
定例会。その言葉を口にした瞬間、彼女の表情が曇った。
「ここ、おかしいと思いませんか?」
私が鎌をかけると、彼女は周囲を警戒するように視線を走らせ、震える声で囁いた。
「田中さん、あまり深い入りしないでください。この仕事、ただのボランティアだと思って適当に流した方がいいです。……殺されますよ」
「殺される?」
「ここは、牧村代表だけの場所じゃないんです」
彼女が語った内容は、私の予想を超えていた。
『光の家』は、巨大な集金システムだった。
福祉活動という隠れ蓑を使い、企業からの不正な寄付金を洗浄(マネーロンダリング)して裏金を作る。その金は、顧問理事に名を連ねる与党の大物政治家や、警察官僚のOBたちへと流れていく。
牧村が十年前、精神鑑定で無罪を勝ち取れたのも偶然ではなかったのだ。彼の父親がかつて地方の名士であり、その際に貸しを作った「有力者」たちが、彼をトカゲの尻尾として切り捨てず、逆に使い勝手の良い「汚れ役」として再利用したのだ。
法が彼を裁かなかったのではない。法を作る側の人間たちが、彼を必要としたのだ。
私は慄然とした。私が戦おうとしている相手は、一人のサイコパスではなく、この国の腐敗したシステムそのものだった。
「どうして君は、こんな所にいるんだ?」
私の問いに、真宮は唇を噛んだ。
「母が入院しているんです。心臓の病気で、莫大な手術費がかかる。牧村代表が……その費用を肩代わりしてくれています。私は、共犯者になるしかなかった」
彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「私、あそこの入所者さんたちが虐待されているのを知っていて、見ないふりをしています。母を助けるために、何十人もの人を地獄に突き落としているんです。私も……牧村と同じ悪魔です」
泣き崩れる彼女の背中は、ひどく小さかった。
私は無意識に手を伸ばしかけ、止めた。私の手は血で汚れる予定の手だ。彼女を慰める資格などない。
だが、私の脳裏に、もし生きていれば彼女くらいの年齢になっていたかもしれない娘・結衣の姿が重なった。
彼女もまた、この巨大な悪に食い物にされた被害者の一人だ。
「……泣いても何も変わらない」
私は突き放すように言った。
「だが、出口はあるかもしれない」
その夜、私は行動に出た。
真宮の話にあった「定例会」の裏帳簿。それが保管されているはずのサーバールームへ侵入するためだ。
警備システムはザルだった。彼らは「表の顔」を守ることに必死で、内部の人間である清掃員(ボランティア)が牙を剥くことなど想定していない。
深夜のオフィス。私は清掃用具入れから拝借したマスターキーでサーバールームへ忍び込んだ。
パソコンの画面が青白く光る。私は真宮から聞き出したパスワードを打ち込んだ。
『Bin: 0000』――牧村の誕生日か。自己愛の強い男らしい。
画面に表示されたデータの羅列に、私は息を呑んだ。
政治家の実名、裏金の送金記録、そして入所者を裏社会へ「人身売買」した取引のリスト。
これを警察に持ち込んでも揉み消されるだろう。だが、マスコミとネットに同時にばら撒けば、さすがに隠し通せないはずだ。
データをUSBメモリにコピーする。進捗バーがゆっくりと伸びていく。
90%、95%……。
完了。
私はUSBを引き抜き、ポケットにねじ込んだ。
これで牧村を社会的に殺せる。
だが、それだけでは足りない。奴が全てを失い、絶望の淵に立たされた時、私が引導を渡すのだ。
高揚感と共に部屋を出ようとした時だった。
背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
殺気。
私はとっさに身を翻し、清掃用ワゴンの影に隠れた。
コツ、コツ、コツ。
廊下を歩いてくる足音が一つ。
牧村ではない。もっと重く、抑制された足音だ。
ドアが開いた。
懐中電灯の光が室内を切り裂く。
逆光で顔は見えないが、大柄な男のシルエットが浮かび上がった。仕立ての良いスーツの下に、鍛え上げられた肉体があるのがわかる。
警備員ではない。この雰囲気は、私と同じ「そっち側」の人間だ。
「……ネズミが入り込んだか」
男が低い声で呟いた。
光が私の隠れているワゴンのすぐ側を掠める。
男は鼻を鳴らした。
「臭うな。清掃員の臭いじゃない。獣の臭いだ」
見つかったか?
私はポケットの中のドライバーを握りしめた。USBメモリの角が掌に食い込む。
男が一歩、こちらへ踏み出したその時――。
ウゥゥゥゥ――!!
突然、火災報知器のベルが鳴り響いた。
男が舌打ちをして、廊下へと飛び出していく。
私は崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、非常階段へと走った。
誰がベルを鳴らした? 誤作動か?
裏口から外へ飛び出した時、私は二階の窓に人影を見た。
真宮陽子だ。
彼女が震える手で非常ボタンを押したのが見えたような気がした。
私は雨の中を走った。
ポケットの中の証拠(USB)が、心臓のように脈打っているのを感じながら。
もう後戻りはできない。私は虎の尾を踏んだのだ。そして、あの若い女性職員をも、命がけのゲームに巻き込んでしまった。
第4章 境界線を越える
新宿の雑居ビルにあるインターネットカフェの薄暗い個室。
私はモニターの青白い光に照らされながら、震えが止まらなかった。寒さのせいではない。画面に映し出されたニュース速報のせいだ。
『昨夜未明、NPO法人施設にて職員女性が転落死。警察は自殺と見て捜査――』
画面の隅に、見覚えのある顔写真が表示されている。真宮陽子だ。
記事によれば、彼女は仕事上の悩みを苦に、施設の屋上から飛び降りたことになっていた。遺書も見つかったという。
嘘だ。
あの時、彼女は私を逃がすために非常ベルを鳴らした。その直後に、あの始末屋の男に見つかり、口封じのために突き落とされたのだ。
私が殺したようなものだ。
正義を行おうとした結果がこれか。私がUSBを持ち出したせいで、罪のない人間が一人、コンクリートの上で潰れたトマトのようになった。
私はポケットからUSBメモリを取り出した。
この中には、政治家や警察OBを破滅させるだけの証拠が入っている。これを大手新聞社や週刊誌に送りつければ、牧村静という虚像は崩壊するだろう。
だが、それが何になる?
牧村は逮捕されるかもしれない。だが、十年前にそうだったように、優秀な弁護士と精神鑑定、そして裏の力が彼を守るだろう。彼は「責任能力なし」として病院のベッドで優雅に暮らすか、あるいは数年でシャバに出てきて、また別の名前で善人の仮面を被るだけだ。
法は、悪を裁けない。法とは、社会の秩序を守るためのシステムであって、個人の恨みを晴らすための装置ではないからだ。
そして社会そのものが腐っている今、このUSBはただのプラスチックの破片に過ぎない。
バキッ。
乾いた音が個室に響いた。
私はUSBメモリを踵で踏み砕いていた。一度では足りず、何度も、何度も、粉々になるまで踏みつけた。
チップの破片が床に散らばる。それは私が十年間すがってきた「法による断罪」という幻想の残骸だった。
「……そうだ、最初からこうすべきだったんだ」
私は席を立ち、店を出た。
向かったのはホームセンターだ。
園芸コーナーで、刃渡りの長い剪定用ナイフを選んだ。さらに、粘着テープ、結束バンド、そして作業用のゴーグル。
レジの店員が不審そうな目で私を見たが、関係ない。私はもう、この社会の住民ではないのだから。
街は夜を迎えようとしていた。
今夜、湾岸エリアの高級ホテルで、『光の家』設立十周年記念パーティーが開かれる。政財界のVIPが集まり、牧村静の功績を称える華やかな宴だ。
そこが処刑場だ。
私はホテルの地下駐車場に潜り込んだ。
清掃員の制服を着ていると、誰も私を怪しまない。人は清掃員を「風景」として認識し、その顔を見ようとはしない。皮肉なものだ。社会の底辺にいるからこそ、誰よりも深く、奴らの懐に入り込める。
搬入口の影で、ナイフの柄に滑り止めのテープを巻きながら、ニーチェの言葉を思い出した。
『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物にならぬよう気をつけなくてはならない』
かつてはこの言葉を、戒めとして聞いていた。復讐に囚われれば、自分も人間でなくなるぞ、と。
だが今は違う解釈ができる。
怪物を殺せるのは、怪物だけだ。
人間としての良心、法への順守、未来への希望。そういった重荷をすべて捨て去り、純粋な殺意の塊となった獣だけが、あの牧村静という悪魔の喉笛を食いちぎれるのだ。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。
上等だ。ならば、その深淵ごと引きずり出して殺してやる。
エレベーターが地下に降りてくる音がした。
パーティー会場への直通エレベーターだ。
私はゴーグルを装着し、ナイフを逆手に持った。
心臓の鼓動は驚くほど静かだった。怒りも、悲しみも、恐怖もない。あるのは、作業を遂行するような冷徹な意志だけ。
もう戻れない。
真宮陽子の死顔と、十年前の妻と娘の笑顔が、走馬灯のように交錯して消えた。
私は一歩、光の当たる場所へと踏み出した。
そこはもう、境界線の向こう側だった。
第5章 断罪の夜
シャンデリアの光が溢れる大広間からは、弦楽四重奏の優雅な旋律と、上品な談笑のさざめきが漏れ聞こえてくる。
私は、その光の届かない舞台裏、VIP専用の控室のクローゼットの中に潜んでいた。
狭い闇の中で、自分の呼吸音だけがひどく大きく聞こえる。握りしめたナイフの柄は、手汗で濡れていた。
二時間。あるいは永遠にも思える時間が過ぎた頃、ドアが開いた。
「……ああ、少し休ませてくれ。君は外で見張っていていい」
聞き覚えのある声。牧村静だ。
「しかし、代表。最近は物騒ですから」
低い声で答えたのは、あの夜、事務所で遭遇した始末屋の男だろう。
「大丈夫だ。このホテルは要塞だよ。それに、少し一人になりたいんだ。……あのくだらない祝辞の挨拶には反吐が出る」
ドアが閉まり、鍵がかかる音がした。
部屋には牧村一人。
彼はネクタイを緩め、深いため息をつきながらソファに体を沈めた。テーブルの上の高級ブランデーをグラスに注ぎ、一気に煽る。
その顔からは、聖人の仮面が剥がれ落ちていた。そこにあるのは、成功に飽き、他者を軽蔑しきった、空虚な中年の顔だった。
私はクローゼットの扉を音もなく開け、背後から近づいた。
距離は三メートル。
殺気を感じたのか、牧村がグラスを止めた。
「……掃除の時間にしては、早すぎるんじゃないか?」
彼は振り向かずに言った。その声には、驚きよりも、どこか楽しむような響きがあった。
「ああ、掃除の時間だ。大きなゴミが残っているからな」
私は彼の正面に回り込んだ。作業用ゴーグルを外し、素顔を晒す。
牧村は私を見上げた。
一瞬、その瞳が記憶の糸を手繰り寄せるように揺らぎ、やがて薄い笑みの形に固定された。
「君か。……あの時の、冴えない旦那さん」
彼は名前すら覚えていなかった。だが、私が何者かは理解したようだ。
「十年ぶりですね。随分と老け込んだようだ」
「お前を殺すために生きてきたからな。その分、魂がすり減ったんだよ」
私はナイフを突きつけた。切っ先が彼の喉元、数センチのところで止まる。
普通なら命乞いをする場面だ。だが、牧村はグラスを置き、足を組んだ。
「殺す? 私を? やめておけ。君には損だ」
彼はまるで商談でもするかのように淡々と語り始めた。
「私を殺せば、君はただの殺人鬼だ。だが、私を生かしておけば、私はこれからも何千人もの弱者を『救う』フリをして、社会のバランスを保ち続ける。必要悪という言葉を知っているか?」
「真宮陽子も、お前のバランスのために死んだのか?」
「彼女は弱かった。それだけだ。弱い人間は、強い人間の養分になることでしか社会に貢献できない。それが自然の摂理だ」
牧村は立ち上がり、両手を広げた。
「私を撃てば、君も同じ獣になる。いや、君は私以下だ。私はシステムを作ったが、君はただ感情に任せて破壊するだけ。……さあ、どうする? 良心に従ってここを出ていくか?」
彼の目には、確信があった。常人が持つ「殺人の忌避感」が、私の行動を止めると踏んでいるのだ。
確かに、以前の私なら躊躇したかもしれない。
だが、私はもう境界線を越えている。
「議論は終わりだ、曽根」
私は彼の昔の名前を呼んだ。
「俺は獣でいい。お前を地獄に引きずり込めるなら、怪物にでも悪魔にでもなってやる」
私は踏み込んだ。
牧村の表情が、初めて恐怖に歪んだ。
「待て、金なら――」
ドスッ。
鈍い音が響いた。
私のナイフは、彼の白いシャツの胸元、心臓のあたりに深々と突き刺さっていた。
手応えは、驚くほど柔らかかった。肉と骨を断つ感触。
「あ……が……」
牧村の口から赤い泡が溢れる。
私はナイフを引き抜き、もう一度、突き刺した。
三度、四度。
返り血が私の顔にかかる。温かい。そして鉄の臭いがする。
十年前、私の家の床を濡らしたのと同じ、赤い血だ。こいつの血も、私の妻や娘と同じ色をしていたことが、ひどく腹立たしかった。
牧村の体が崩れ落ちる。
痙攣していた手足が、やがて動かなくなった。
見開かれたその目は、天井の一点を凝視したまま、光を失っている。その瞳の奥にあった邪悪な輝きは消え、ただの肉塊の一部になっていた。
終わった。
私は肩で息をしながら、血まみれのナイフを落とした。
絨毯が赤黒く染まっていく。
胸の中に湧き上がるはずの達成感を探した。
「やったぞ」と叫びたい衝動を探した。
だが、そこには何もなかった。
広大な空洞のような虚無。
こいつを殺しても、美佐子は帰ってこない。結衣の笑顔も戻らない。
ただ、この世からクズが一人減り、代わりに人殺しが一人増えただけだ。
その時、ドアノブがガチャガチャと乱暴に回された。
「代表! どうしました、今の音は!」
外で始末屋が叫んでいる。鍵を壊して入ってくるのは時間の問題だ。
私は牧村の死体を見下ろしたまま、動けなかった。
復讐の炎は消えた。あとに残ったのは、燃え尽きた灰と、凍えるような孤独だけだった。
第6章 悪を見た
轟音と共に、重厚なドアが蹴破られた。
木片が飛び散り、大柄な始末屋が銃を構えて飛び込んでくる。
だが、私は抵抗しなかった。逃げようともしなかった。
私は部屋の隅にある、壁一面の大きな鏡の前に立っていた。
「動くな! 手を上げろ!」
男の怒号が遠くの出来事のように聞こえる。
彼は床に転がる牧村の死体と、その上に広がる赤い海を見て息を呑み、憎悪に満ちた視線を私に向けた。
「貴様……よくも代表を……!」
私はゆっくりと手を上げた。その手は、べっとりと赤く濡れている。
鏡の中の男も、同じように血塗られた手を上げている。
これが私か?
清掃員の作業着は返り血で斑点模様になり、頬には他人の血が涙のように伝っている。
髪は乱れ、目は落ち窪み、皮膚は土気色をしている。
十年前、愛する家族と食卓を囲んでいた真面目な会社員の面影は、そこには微塵もなかった。
ふと、鏡の中の男が笑ったように見えた。
いや、実際に口角を吊り上げているのは私自身の顔の筋肉だ。
その表情に、私は既視感を覚えた。
――あの日。
妻と娘の死体の真ん中で、クレヨンを握りしめて笑っていた曽根明。
そしてさっきまで、弱者を食い物にして薄ら笑いを浮かべていた牧村静。
鏡に映っているのは、奴だ。
私はあいつを殺したはずなのに、あいつは今、私の皮膚を被り、私の目を通してこの世界を見ている。
私は理解した。
「悪」とは、固有の誰かを指す言葉ではない。
それはウィルスのように、あるいは重力のように、誰の心の底にも潜んでいる「可能性」のことだ。
社会の不条理、理不尽な暴力、耐え難い喪失。そういったトリガーが引かれた瞬間、それは目を覚まし、宿主を食い破って表に出る。
曽根明は「狂気」というトリガーで悪になった。
牧村静は「欲望」というトリガーで悪になった。
そして私、木島は――「愛」と「正義」という、最も美しいトリガーによって、悪へと変貌したのだ。
ニーチェは正しかった。怪物は死なない。ただ、その仮面を次の者へと受け渡していくだけだ。
私は牧村という怪物を殺し、その瞬間に、私が新しい怪物になった。
復讐は成し遂げられたが、救いはどこにもない。ここにあるのは、悪意の連鎖という冷厳な事実だけだ。
ウゥゥゥゥ――。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。
ホテルの外では、何も知らない人々がシャンパングラスを傾けているのだろう。
この部屋の惨劇も、明日の朝刊の片隅に載り、数日で忘れ去られる。社会という巨大な生き物は、私のような異物を飲み込み、消化し、何事もなかったかのように回転し続ける。
「立て。警察に突き出してやる」
始末屋が私の背中に銃口を押し当てた。
私は抵抗せず、大人しく歩き出した。
手錠をかけられ、連行されるその時、私はもう一度だけ鏡を見た。
そこに映る男の目は、深く、暗く、どこまでも虚無だった。
私はその目を知っている。
あれは、僕の人生のすべてを奪った男の目だ。
そして今、それは僕自身の目だ。
僕は、僕の人生に悪を見た。
それは外側にあったのではない。最初から、僕の中にいたのだ。
私は静かに目を閉じた。
暗闇の中で、遠い日の娘の笑い声が聞こえたような気がしたが、それもすぐにサイレンの音にかき消されていった。
(完)
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。