小説作成しました。タイトル:『スマッシュ・シンクロニシティ』
2026年一発目の小説は青春小説です。2026年もよろしくお願いします。

タイトル:『スマッシュ・シンクロニシティ』
第1章 最悪のダブルス結成
キュッ、と甲高い摩擦音が、体育館の空気を引き裂いた。
視界の端で、白いシャトルがスローモーションのように床へと落ちていく。
追いつけない。
俺の身体は、勢い余ってサイドラインの外まで踏み出していた。
「ゲームセット! 21対19!」
審判のコールが、死刑宣告のように響く。
俺、神代烈(かみしろ・れつ)の2年生としてのインターハイ予選は、この県大会3回戦で呆気なく幕を閉じた。
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。汗が滴り落ち、床に濃い染みを作った。心臓が早鐘を打っているのは、運動量のせいだけじゃない。悔しさで、内臓が焼けそうだった。
「惜しかったな、神代」
「まあでも、最後も力任せのアウトだろ? あいつ、パワーはあるけど単調なんだよな」
ギャラリーからの遠慮のない囁きが、鼓膜に突き刺さる。
分かってる。そんなことは、自分が一番よく分かっている。
俺には「武器」がない。身長180センチの体格と、馬鹿力だけ。スマッシュの速度なら誰にも負けない自信があるのに、コースを読まれ、揺さぶられ、最後は自滅する。いつものパターンだ。
ラケットを握る手に力が入り、グリップテープがきしんだ。
「……クソッ」
短く吐き捨て、俺は逃げるようにコートを後にした。
熱気が充満するメインアリーナから離れ、少し薄暗い渡り廊下の自販機コーナーへ向かった。
スポーツドリンクを一気に喉へ流し込む。冷たさが食道を通っていくが、胸の内の熱は冷めない。
壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。
「……角度35度からのクロススマッシュ。初速は申し分ないけれど、予備動作が大きすぎてコースが丸分かり。被リターン率、85%」
不意に、淡々とした声が頭上から降ってきた。
温度を感じさせない、鈴を転がしたような綺麗な声。けれど、言っている内容は劇薬だった。
顔を上げる。
そこにいたのは、ジャージ姿の女子生徒だった。
色素の薄い茶色の髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。手には分厚いキャンパスノートとペン。
彼女のことは知っていた。うちの高校のバドミントン部で、ある意味、一番有名な女子だ。
「……冬月(ふゆつき)、氷織(ひおり)」
「あら、名前は知られているのね。光栄だわ」
氷織は眼鏡の位置を指先で直しながら、俺を見下ろした。その瞳は、まるで実験動物を観察する科学者のようだ。
彼女は「氷の女王」と呼ばれている。1年の頃は女子シングルスのホープだったらしいが、今はなぜか試合に出ていない。ベンチでひたすらデータを取っている姿ばかり目撃されている変わり者だ。
「何の用だ。負け犬の分析なら、他を当たってくれよ」
「負け犬なんて言っていないわ。私は事実を述べただけ。あなたのプレースタイルは、言うなれば『照準器のついていない大砲』よ。威力はあっても、当たらなければ意味がない」
カチン、と頭の中で何かが弾けた。
試合直後の神経が張り詰めている時に、わざわざ傷口に塩を塗り込んでくるとは。
俺は立ち上がり、彼女を睨みつけた。
「言いたいことはそれだけか?」
「いいえ、本題はここから」
氷織は全く怯む様子を見せず、俺の眼前に人差し指を立てた。
そして、信じられないことを口にした。
「その大砲、私が使ってあげる」
「……は?」
「私と組みなさい、神代烈。ミックスダブルスで」
思考が停止した。
ミックスダブルス? 男女混合?
俺はシングルスにこだわってきた。自分の力だけで勝ち上がることに意味があると思っていたからだ。それに、こんな嫌味な女と組むなんて想像もつかない。
「断る。俺はシングルスで勝負したいんだ」
「無理よ」
即答だった。
「あなたのその直情的な性格とプレースタイルじゃ、県ベスト16が限界。今の試合がその証明。……でも、私の『脳』があれば話は別」
氷織が一歩、俺に近づく。
シャンプーの香りが微かに汗の匂いに混じる。
「私は膝を壊して、コートを前後左右に走り回るシングルスはもうできない。でも、前衛でシャトルを捌く技術と、ゲームメイクには自信がある。私に足りないのは、決定的な一撃を放てる『後衛』の火力」
「それが、俺だって言うのか」
「ええ。あなたの馬鹿力……いいえ、パワフルなスマッシュは、私の配球さえあれば100%決まる。ウィンウィンの関係だと思わない?」
どこまでも合理的で、上から目線。
こいつの言う通りにするのは癪に障る。だが、その瞳の奥に、奇妙な熱が宿っていることに気づいた。
冷徹な言葉の裏に見え隠れする、渇望のようなもの。
こいつも、試合に出たいのか? 勝ちたいのか?
俺は空になったペットボトルをゴミ箱に投げ入れた。
カラン、と乾いた音が響く。
「……一つだけ訂正しろ」
「何を?」
「俺のは馬鹿力じゃねえ。スーパー・キャノン・スマッシュだ」
「……ネーミングセンスは最悪ね」
氷織が呆れたようにため息をついた。
だが、その口元が微かに、本当に微かに笑ったように見えた。
「いいだろう。試してやるよ、お前のその『脳』とやらを」
「後悔させないわ。ただし、コートの上では私の指示に従ってもらうから」
「へいへい、女王様」
俺たちの手は握手こそしなかったが、視線だけはバチバチと火花を散らしながら絡み合った。
こうして、夏の大会に向けた俺たちの、最悪で最高な夏が幕を開けたのだった。
第2章 噛み合わない歯車
結論から言おう。
俺たちのダブルスは、壊滅的だった。
「どいて! そこは私の守備範囲よ!」
「うるせえ! 来た球は全部打つ、それが俺の流儀だ!」
ガツッ、と鈍い音が響く。
俺と氷織のラケットが空中で激しく接触した。
コントロールを失ったシャトルは、情けない放物線を描いてネットにかかった。
「……また被りましたね、先輩たち」
ネットの向こうで、1年生の後輩ペアが気まずそうに苦笑いしている。
俺たちは今、部内の練習試合で、格下相手にボロボロに負けていた。
ミックスダブルスの基本陣形は、女子が前衛(ネット前)、男子が後衛(コート奥)を担当する「トップ・アンド・バック」がセオリーだ。
だが、シングルス歴の長い俺には、その「自分の場所を守る」という感覚が染み付いていなかった。
「ちょっと、どういう神経してるの?」
氷織がラケットのフレームを確認しながら、氷点下の視線を俺に向けてくる。
「さっきのロブ、私がネット前で叩けたわ。なんで後ろからイノシシみたいに突っ込んでくるの?」
「ああん? お前がトロいからだろ! 目の前にチャンスボールがあったら飛びつくのが本能ってもんだ!」
「それが『サルの脳みそ』だと言っているの。ダブルスは算数よ。1たす1を2以上にするパズルなの。あなたが無秩序に動けば、計算式が成り立たない」
氷織の言葉は正論だ。だが、その一言一言がいちいち癇に障る。
「計算、計算ってうるせえな! 頭で考えてる間にシャトルは落ちんだよ!」
結局、その試合はストレート負け。
周囲の部員たちも、最初は面白がって見ていたが、次第に腫れ物に触るような空気になっていった。
俺たちの空気は最悪だった。
「……今日はもういい。解散しましょう」
氷織は冷たく言い放つと、汗を拭くこともせず、足早に体育館を出て行ってしまった。
部活終了後の更衣室で着替えを済ませた俺は、モヤモヤした気分のままカバンを背負った。
あんな言い方をする俺も俺だが、あいつも人の気持を考えなさすぎる。
「協調性ゼロ同士かよ……」
ため息交じりに体育館の裏手を歩いていると、ふと、用具倉庫の明かりが漏れているのに気づいた。
誰か残っているのか?
防犯上の確認も兼ねて、俺はそっと扉の隙間から中を覗いた。
そこにいたのは、氷織だった。
パイプ椅子に座り、ジャージのズボンの裾を捲り上げている。
俺は息を呑んだ。
彼女の右膝は、痛々しいほど何重にもテーピングで固定されていた。さらにその上から、氷嚢を押し当ててアイシングをしている。
白い肌の中で、手術痕と思われる古傷がミミズ腫れのように赤く浮き上がっていた。
「……っ、つぅ……」
昼間のすました顔からは想像もつかない、苦悶の表情。
彼女は誰もいない倉庫で、一人、痛みに耐えていたのだ。
彼女が手元で開いているのは、今日の練習試合を録画したタブレット端末だった。
画面の中の俺は、滅茶苦茶に動き回り、前衛にいる氷織を危険に晒していた。氷織が咄嗟に身を引いたシーン。その瞬間、彼女が一瞬だけ右膝を庇うような動きをしていたことに、俺は今の今まで気づかなかった。
「……動け、私の足」
彼女の小さな呟きが聞こえた。
「あと、一夏だけでいいから」
その声は、祈りのようだった。
俺は扉を開けることができず、その場に立ち尽くした。
あいつが言っていた「私はもう走れない」という言葉。それは戦術的な意味合いだけじゃなく、物理的な限界だったんだ。
選手生命の終わりを自覚しながら、それでもコートに立ちたいと願う執念。
そのために、あいつは俺を選んだ。
自分が動けない分を補える、圧倒的な運動量を持つパートナーとして。
俺は何てダサいんだ。
「お前がトロいから」なんて、どの口が言った?
拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで自分を戒める。
俺は音を立てないように、そっとその場を離れた。
だが、俺の心の中で燻っていた不満の炎は消え、代わりに別の、もっと静かで熱い炎が灯り始めていた。
翌日。
朝練のために誰よりも早く体育館に来た俺は、ネットを張りながらあることを決めていた。
しばらくして、氷織がやってきた。昨日の喧嘩などなかったかのように、彼女は無表情だ。
「おはよう。昨日の反省会をしたいのだけれど」
「ああ、そのことだが」
俺はラケットを持ち、彼女の前に立った。
今まで見下していた目線を、真っ直ぐに合わせる。
「俺は馬鹿だから、難しい計算式は分かんねえ」
「……でしょうね」
「だから、お前が俺を操縦しろ。俺はお前のコントローラーになる」
氷織が目を丸くした。
「どういう風の吹き回し?」
「お前が動かなくていいように、俺が全部拾うって言ってんだよ。その代わり、俺が気持ちよく打てる球を上げろ。……それなら文句ねえだろ」
膝のことは言わなかった。同情されたと思うのは、彼女のプライドが許さないだろうから。
氷織は数秒間、探るように俺の顔を見ていたが、やがてフッと口角を上げた。
「……悪くない提案ね。いいわ、徹底的に使い倒してあげる」
その笑顔は、昨日までの冷徹な仮面とは違い、どこか共犯者のような悪戯っぽさを含んでいた。
俺たちの歯車が、軋み音を上げながらも、初めて一つだけ噛み合った瞬間だった。
第3章 雨上がりのシンクロ
氷織の「操縦」は、想像を絶するスパルタだった。
「右! 次はバック奥!」
「戻って! まだ止まらない!」
俺は息つく暇もなく、コートの中を走り回っていた。
だが、以前のような無駄な疲労感とは違っていた。
氷織の指示通りに動くと、不思議なことが起きる。俺がそこに移動した瞬間、相手が苦し紛れに打ち返したシャトルが、吸い込まれるように俺のラケットの「芯」へと飛んでくるのだ。
(マジかよ……)
ドンッ! と重い衝撃音と共に、俺のスマッシュが相手コートに突き刺さる。
俺が打つんじゃない。俺がそこにいるだけで、相手がそこに打たされている。
まるで未来予知だ。
彼女の前衛での細かなフェイントやポジショニングが、相手の選択肢を削り、俺の元へシャトルを誘導しているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「……ハァ、ハァ、悪くねえ」
汗が床に落ちる。
俺は初めて、ダブルスの面白さに触れていた。一人じゃない。俺が後ろで構えていれば、前は彼女が制圧してくれるという絶対的な安心感。
その日の練習終わり、外は土砂降りの雨だった。
俺たちは体育館の軒下で、雨宿りをしながらクールダウンをしていた。湿った空気が、火照った肌に心地いい。
「少しはマシな動きになってきたわね」
氷織がタオルで顔を拭きながら言った。その顔色は少し白い。膝の痛みを隠しているのだろうか。
「お陰様でな。……なあ、冬月」
「何?」
「お前、すげえよ。あんな風にゲームを支配できるなら、もっと早く誰かと組めばよかったじゃねえか」
俺が何気なく言うと、氷織の手が止まった。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
「……誰も、私の計算にはついてこれなかったのよ」
彼女は遠くの雨雲を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「私の理論は完璧だけど、それを実行するには強靭なフィジカルと、私を信じて飛び込む度胸が必要になる。みんな、私の指示を疑って一瞬遅れる。その一瞬が命取りになるの」
そして、彼女は視線を俺に移した。
「でも、あなたは違った。馬鹿正直に、私の言葉通りに走る。疑うことを知らない子供みたいに」
「褒めてんのか、それ?」
「最大限の賛辞よ」
氷織は少しだけ笑った。今度は冷笑ではなく、どこか儚げな笑みだった。
「私ね、怖いの。この足がいつ動かなくなるか。バドミントンが大好きで、積み上げてきた理論が正しいことを証明したいのに、体がいうことを聞かない。……それが悔しくて、ずっと世界を呪ってた」
俺は黙って聞いていた。
倉庫で見たあの姿が脳裏をよぎる。
俺はスポーツドリンクの缶を指で弾いた。
「証明してやるよ」
「え?」
「お前の理論は間違ってねえ。俺が全部証明してやる。お前の足が止まったら、俺がその倍動く。お前の計算が外れたら、俺が力づくでねじ伏せる」
俺は彼女の目を見て、ニカっと笑った。
「だから安心しろ。お前の背中は、スーパー・キャノン・スマッシュが守ってやる」
「……ふふっ、だからそのネーミング、本当にダサいってば」
氷織が声を上げて笑った。初めて見る、年相応の少女の笑顔だった。
その瞬間、雲の切れ間から夕日が差し込み、雨粒がキラキラと輝き始めた。
「……ねえ」
「ん?」
「烈(れつ)、って呼んでいい?」
突然のことに、俺は心臓が跳ねた。
「は? ああ、まあ、別にいいけど……」
「じゃあ、あなたも私のこと、名前で呼びなさい。パートナーなんでしょう?」
「……分かったよ、氷織(ひおり)」
名前を呼んだ瞬間、何かがカチリとハマった気がした。
ただの「同級生」から、「相棒」へ。
俺たちの距離が、物理的にも心理的にも、急速に縮まった瞬間だった。
翌週、強豪校との練習試合。
俺たちの進化が試される時が来た。
相手は県ベスト4のペア。今までなら手も足も出なかった相手だ。
ラリーが続く。
相手が氷織の頭上を越えるロブを上げた。狙われたのは、彼女のバックハンド側、一番の死角だ。
「氷織、しゃがめ!」
俺は叫ぶと同時に、地面を蹴った。
普通なら前衛が取るボール。だが、俺は氷織が動けないことを知っている。
氷織は振り返りもしなかった。俺の声を聞いた瞬間に頭を下げ、視界を開ける。
そこには、彼女を飛び越えて跳躍した俺がいた。
空中で体が伸びる。
ラケットの面が、シャトルを捉える。
ドゴォォォン!!
今までで一番重く、速い一撃が、相手コートの誰もいないスペースに突き刺さった。
一瞬の静寂の後、体育館がどよめきに包まれる。
「ナイススマッシュ、烈!」
氷織が振り返り、ハイタッチを求めて手を上げた。
「ナイスコース、氷織!」
パァン!
俺たちの掌が重なる。
痛いくらいに痺れるその感触は、勝利の予感そのものだった。
第4章 快進撃と強敵
夏の本番、インターハイ地区予選。
体育館の湿度は極限まで達し、熱気が湯気のように立ち込めていた。だが、俺たちの視界はクリアだった。
「烈、前!」
「おうよ!」
俺がネット前に飛び出し、甘くなったヘアピンショットをプッシュで叩き込む。
審判のコールと共に、試合終了のホイッスルが鳴った。
「勝者、神代・冬月ペア!」
ベスト4進出。
会場がどよめきに包まれる。
「おい、見たかよ今の」「あの神代がフェイント入れたぞ」「冬月の配球、エグすぎだろ」
一ヶ月前まで「ただの馬鹿力」と「氷の女王」と揶揄されていた俺たちは、今や大会の台風の目となっていた。
ベンチに戻り、スポーツドリンクを煽る。
「悪くないペースね。消耗も最小限に抑えられているわ」
氷織がタブレットでデータをチェックしながら言った。汗で前髪が額に張り付いているが、その瞳は爛々と輝いている。
「お前の読みが当たりすぎて怖いぐらいだぜ。相手、最後の方は何を打てばいいか分からなくなってパニックになってたな」
「あなたが威圧感を与え続けてくれたからよ。……ナイスゲーム、烈」
氷織がタオル越しに、トン、と俺の肩を小突いた。
その何気ない仕草に、俺の胸がドクリと鳴る。
最近、試合中に目が合うだけで、体温が一度上がるような感覚がある。
これが「ゾーン」に入っている高揚感なのか、それとも別の何かなのか。俺はあえて深く考えないようにして、視線をトーナメント表に向けた。
準決勝も、俺たちの勢いは止まらなかった。
氷織が操り、俺が破壊する。完成されつつある「最強の矛と盾」は、危なげなく決勝への切符を手にした。
決勝戦までのインターバル。
俺たちは廊下で、次の対戦相手の試合を眺めていた。
反対側のコートから勝ち上がってきたのは、第一シードの優勝候補筆頭、星徳(せいとく)高校のペアだ。
「……やっぱり、来たか」
隣で、氷織の声が硬くなった。
彼女の視線の先には、涼しい顔でスマッシュを決める長身の男子選手がいた。無駄のない動き、精密機械のようなショット。そして何より、隣にいるパートナーの女子との連携が、恐ろしいほど洗練されている。
「知り合いか?」
俺が聞くと、氷織は唇を噛み締め、小さく頷いた。
「……久我(くが)湊(みなと)。去年まで、私がミックスを組んでいたパートナーよ」
俺は眉をひそめた。
「元相棒ってことか。なんで解消したんだ?」
「解消、じゃないわ」
氷織の声が震えた。
「捨てられたの。私が膝を壊した翌日、彼はすぐに別のパートナーを見つけて言ったわ。『君の機動力じゃ、僕の計算についてこれない』って」
胸糞悪い話だ。
効率主義の氷織が、さらに効率主義の男に切り捨てられたという皮肉。
俺は黙って、コート上の久我という男を睨みつけた。
試合が終わり、久我ペアがこちらに向かって歩いてきた。俺たちの存在に気づき、久我が足を止める。
「やあ、冬月。まさかここまで上がってくるとはね」
整った顔立ちに、薄い笑みを浮かべている。悪意があるというより、純粋に意外だという表情だ。
「……久しぶりね、久我くん」
「足はもういいのかい? 見ていたけど、随分と野性的なパートナーを見つけたみたいだね。君の緻密なバドミントンとは正反対に見えるけど」
久我の視線が俺に向けられた。品定めするような、冷ややかな目。
「君の理論も落ちたものだ。そんな『運任せ』のプレイヤーと組むなんて」
氷織が何か言い返そうとして、言葉を詰まらせる。彼女の手が震えているのが分かった。過去のトラウマ、自分を否定された記憶が蘇っているのだ。
俺は一歩前に出て、氷織を背中で隠した。
「おい、イケメン」
「……なんだい?」
「俺たちは運任せじゃねえ。俺の筋肉と、こいつの脳みそが合わされば最強なんだよ。四の五の言わずにコートに立て。その綺麗に整った前髪、俺の風圧でぐしゃぐしゃにしてやる」
俺の挑発に、久我は少しだけ眉を動かし、「……相変わらず野蛮だね」と吐き捨てて去っていった。
遠ざかる背中を見送ってから、俺は振り返った。
氷織は俯いていた。
「……ごめん。私、冷静じゃなくなってる」
「謝るな」
俺はポンと彼女の頭に手を置いた。
「あいつを見返したいんだろ? 最高の舞台が整ったじゃねえか」
「……勝てるかしら。彼は、私の戦術の全てを知り尽くしているわ」
「お前の戦術『だけ』ならな」
俺はニッと笑って見せた。
「今のペアには俺がいる。あいつのデータにない『不確定要素(イレギュラー)』をぶち込んでやろうぜ」
氷織が顔を上げた。その瞳に、再び戦う意志の光が宿る。
「……ええ。やってやるわ。私の計算が、あいつの計算を上回ることを証明しましょう」
館内放送が、決勝戦の開始を告げた。
俺たちは並んで、光の降り注ぐメインコートへと歩き出した。
第5章 絶望の第1ゲーム
ピーッ!
主審のホイッスルとともに、決勝戦の火蓋が切って落とされた。
最初の1球目で、俺は背筋が凍る思いをした。
久我のサーブ。ショートサーブと見せかけて、手首の返しだけで俺のバックハンド奥深くにロングサーブを放ってきたのだ。
俺が体勢を崩しながらリターンすると、次はネット際ギリギリへのヘアピンショット。
氷織が飛び込む。
だが、その一歩が出遅れた。
「……っ!」
氷織のラケットが空を切る。
シャトルは残酷なほど静かに、彼女の足元へ落ちた。
「0−1」
久我は表情一つ変えず、淡々と次のサーブの準備に入る。
そこからの展開は、まさに地獄だった。
久我ペアの狙いは明確だった。「氷織の右膝」だ。
俺には一切打ってこない。執拗に、徹底的に、氷織を前後左右に揺さぶるショットを繰り返す。
彼女が痛む膝を庇いながらネット前に踏み込むと、今度は頭上を越えるロブ。下がらざるを得ない彼女の足が、悲鳴を上げているのが分かる。
「氷織、無理すんな! 俺が行く!」
俺は陣形を無視して前に飛び出した。
だが、それが久我の思う壺だった。
俺が前衛のカバーに入った瞬間、空っぽになった後衛のスペースへ、鋭いドライブが突き刺さる。
「くそっ……!」
追いつけない。
俺が動けば動くほど、コートに穴が空く。
氷織の計算されたポジショニングは、久我の「氷織の可動域を知り尽くした配球」の前に完全に無力化されていた。
「12−21」
あっという間に第1ゲームが終わった。
完敗だった。何もさせてもらえなかった。
インターバル。
ベンチに戻った氷織の顔色は、紙のように白かった。
肩で息をしながら、震える手でドリンクのボトルを握りしめている。
「……ごめんなさい」
か細い声だった。
「私のせいよ。私が狙われるから、あなたが自由に動けない。私の足が、動かないから……」
彼女の瞳から、光が消えかけていた。
かつて久我に捨てられた時の絶望が、フラッシュバックしているに違いない。
『君の機動力じゃ、僕についてこれない』
あの言葉が、現実となって彼女を押し潰そうとしていた。
「もう、無理かもしれない。棄権しましょう、烈。これ以上やっても、あなたの恥になるだけ……」
ドンッ!
俺はベンチを拳で叩いた。
氷織がビクリと肩を震わせる。
「……ふざけんな」
俺は彼女の前にしゃがみ込み、その冷たい両手を自分の両手で包み込んだ。
強く、痛いくらいに握りしめる。
「俺の恥? そんなもん、どうでもいいんだよ! 俺が悔しいのはな、お前が『諦める計算』をしてることだ!」
氷織が顔を上げる。眼鏡の奥の瞳が揺れている。
「でも、理論的に勝率は0パーセントに近いわ。私の足は限界だし、久我くんは完璧に対策してきている……」
「理論なんてクソ食らえだ!」
俺は吼えた。
「あいつはお前の弱点を知ってるかもしれねえ。だがな、今の俺たちのことは何も知らねえはずだ!」
俺は氷織の手を引いて、無理やり立たせた。
そして、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「お前の計算が外れたら、俺が全部拾ってやる。お前が届かないなら、俺が空を飛んででも追いつく。だから、迷うな」
俺の熱が、手を通じて彼女に伝わっていく。
「俺を使え、氷織。お前のその優秀な頭脳で、俺というコマを死ぬ気で使い倒せ! あいつが嫌がることを考えろ。あいつの計算をぶっ壊すような、無茶苦茶な指示を出せ!」
氷織が息を呑んだ。
俺の瞳に映る自分自身の顔を見る。そこにはまだ、消えきらない闘志の種火があった。
「……無茶苦茶な指示、よ」
「ああ、大好物だ」
氷織がふっと息を吐き、眼鏡を指で押し上げた。
その指先には、もう迷いはなかった。
「分かったわ。……心中してくれる? 私の狂った計算と」
「望むところだ、相棒」
終了のブザーが鳴る。
俺たちはもう一度、コートへ向かった。
絶望は終わりだ。ここからは、反撃の時間だ。
第6章 覚醒、そしてゾーンへ
第2ゲーム。
コートに戻った氷織の雰囲気は、先ほどまでとは別人のように変わっていた。
迷いがない。いや、何かを振り切ったような凄みがあった。
「烈、センターラインを空けなさい。私がネット前で誘うわ」
「おいおい、ど真ん中は自殺行為だぞ?」
「いいえ、久我くんは性格が悪いから、私が不用意に空けたスペースには必ず打ち込んでくる。……そこを、狩るのよ」
ゾクリとした。
それは防御のための策ではない。肉を切らせて骨を断つ、特攻に近い戦術だった。
ラリーが始まる。
氷織はあえて、自分の右側に隙を作った。
久我の目が光る。当然のように、その隙へ鋭いドライブが放たれた。
「もらった!」
相手ペアの声が重なる。
だが、その瞬間。
「分かってんだよ、バーカ!」
俺はすでに助走に入っていた。
氷織の背後から飛び出し、身体を捻りながらラケットを振り抜く。
ドガァッ!!
カウンター気味のスマッシュが、相手コートのサイドラインぎりぎりに突き刺さった。
「なっ……!?」
久我が初めて目を見開いた。
氷織が振り返らずに、ネット前で小さくガッツポーズをする。
「計算通り」
そこからは、俺たちの独壇場だった。
氷織が餌を撒き、久我が食いつき、俺が仕留める。
単純だが、俺の異常な運動量があるからこそ成立する「暴力的な論理」。
第2ゲームは21対18。俺たちが奪い返した。
運命のファイナルゲーム。
互いの体力は限界に近づいていた。
俺の太腿はパンパンに張り、氷織の膝も悲鳴を上げているはずだ。それでも、足は止まらない。
10対10、15対15、19対19。
シーソーゲーム。
会場の歓声が、遠くの波音のように聞こえ始めた。
視界が狭まる。余計な情報が削ぎ落とされ、シャトルの白さだけが鮮明に浮かび上がる。
音が消えた。
自分の心臓の音と、氷織の荒い呼吸だけが、鼓膜に直接響く。
(ああ、これが……)
ゾーン。極限の集中状態。
不思議と怖さはなかった。
前衛にいる氷織の背中が、やけに大きく、頼もしく見える。
彼女がラケットをわずかに右に傾ける。あっちに来る、というサインだ。俺は思考を介さず、身体が勝手に左後方へステップを踏む。
言葉なんていらない。
神経が繋がっているかのような一体感。
「20対20、デュース!」
審判の声さえも、遠い世界の出来事のようだ。
一進一退の攻防が続く。一本取れば、一本取り返される。
28対28。
あと2点で、30点打ち切りのルールにより強制的に決着がつく。
久我のサーブ。
放たれたシャトルが、スローモーションに見える。
レシーブ、ドライブ、ヘアピン、ロブ。
永遠にも感じるラリーの応酬。
その時、氷織が体勢を崩した。膝の痛みが限界を超えたのか、一瞬ガクッとなる。
久我は見逃さなかった。
「終わりだ!」
慈悲のないプッシュが、氷織の顔面目掛けて放たれる。
万事休す。誰もがそう思った。
だが。
「……まだよっ!」
氷織は倒れ込みながらも、ラケットを背中側に回す背面打ち(バックハンド)で、奇跡的にシャトルを弾き返した。
ふわりと高く上がったチャンスボール。
しかし、俺たちにとっては、これが「最高のトス」だった。
俺は跳んだ。
疲労なんて消し飛んだ。
全身のバネを使い、空中へ。最高到達点。
ネットの向こうで、久我とパートナーが絶望的な顔でこちらを見上げている。
氷織が繋いだ執念。彼女の計算、彼女の想い、その全てを、この右腕に乗せる。
(行けえぇぇぇぇッ!!)
咆哮と共に、ラケットを振り抜く。
インパクトの瞬間、シャトルが潰れる感触があった。
ズドォォォォン!!
爆発音のような轟音が響き、シャトルは誰の目にも止まらぬ速さで、相手コートのど真ん中に突き刺さった。
静寂。
数秒の後、審判の声が震えながら響いた。
「ゲームセット! 30対28! 勝者、神代・冬月ペア!」
わぁぁぁぁぁッ!!
体育館が揺れるほどの大歓声が爆発する。
俺は着地した拍子に足がもつれ、そのまま床に大の字に倒れ込んだ。
天井のライトが眩しい。
「……はは、やった……のか?」
実感が湧かない。
すると、視界に氷織の顔がヌッと入ってきた。
彼女は俺の横に座り込み、ボロボロの涙を流していた。クールな氷の女王の面影なんてどこにもない、ぐしゃぐしゃの泣き顔。
「……馬鹿。打ちすぎよ」
「うっせえ……全部拾うって言っただろ……」
「……うん。最高だった。私の計算の、一億倍すごかった」
氷織が身を乗り出し、倒れている俺に抱きついてきた。
汗と涙でぐちゃぐちゃだが、そんなことはどうでもよかった。
俺は残った力を振り絞り、彼女の背中に腕を回した。
温かい。
勝利の味は、スポーツドリンクよりもずっと甘く、そして熱かった。
第7章 エピローグ:勝利の先へ
表彰式を終え、体育館を出る頃には、空は茜色から群青色へと変わり始めていた。
首から下げた金メダルが、歩くたびにカチャリと小さな音を立てる。その重みだけが、今日の出来事が夢ではないことを教えてくれていた。
「……疲れた」
俺は大きく伸びをした。全身の筋肉が悲鳴を上げているが、心地よい疲労感だ。
「情けない声を出さないでよ、チャンピオン」
隣を歩く氷織が、くすりと笑う。
その足取りは、いつものように少し引きずっていたが、表情は今まで見たどの顔よりも晴れやかだった。
駅までの並木道。
夏の夜風が、火照った頬を撫でていく。
俺たちはしばらく無言で歩いた。言葉を交わさなくても、今の俺たちには共有できる空気があった。
「ねえ、烈」
不意に氷織が足を止めた。
「ん?」
振り返ると、彼女は少し俯いて、メダルを指先で弄っていた。街灯の光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「……ありがとう。私、もう一度バドミントンが好きになれた」
素直な言葉だった。
「あの時、あなたが倉庫で見つけてくれなかったら、あなたが私の無茶な計算に付き合ってくれなかったら、私は一生、自分の足を呪って終わっていたと思う」
「よせよ。俺の方こそ、お前がいなきゃ一回戦負けの常連だったんだぞ」
俺は照れ隠しに頭を掻いた。
「それに、まだ終わりじゃねえだろ? 次は県大会、その先にはインターハイが待ってる」
そう言うと、氷織は少し寂しげな笑みを浮かべた。
「……そうね。でも、私の足、どこまで保つかしら」
現実的な不安。それは常に彼女につきまとう影だ。
だが、俺はもう迷わなかった。
「保たせるさ。お前のケアは俺がやるし、試合中は今日みたいに俺が倍動く」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「言っただろ。お前が動けなくなっても、俺が全部拾うって」
氷織がハッと顔を上げる。
俺は右手を差し出した。握手のためじゃない。もっと、確かな温もりを確かめるために。
「だから、これからも俺の『脳』でいてくれ。俺も、お前の『足』であり続けるから」
氷織の瞳が潤み、街灯の光を反射してキラキラと揺れた。
彼女は小さく頷くと、恐る恐る、けれどしっかりと、俺の手を握り返してきた。
細くて、ひんやりとしていて、でも力強い指先。
触れた瞬間、心臓がトクンと跳ねた。これはもう、相棒としての感情だけじゃない。
「……生意気ね、スーパー・キャノンくん」
「その名前はやめろって」
「ふふっ。……よろしく頼むわ、私のパートナー」
繋いだ手から伝わる鼓動は、試合中の激しいものとは違う、穏やかで優しいリズムを刻んでいた。
俺たちは手を繋いだまま、再び歩き出した。
見上げれば、一番星が光っている。
俺たちの青春は、まだ始まったばかりだ。
この夏は、きっと今までで一番、熱くて長い夏になる。
そう予感しながら、俺は氷織の手をもう少しだけ強く握りしめた。
(完)
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