第3章:秘密の場所
月の光が完全に失われた空の下、たったひとつの白い花が咲いていた。
音もなく、ひそやかに——まるでこの世の時間が止まったかのように、その瞬間だけの命を輝かせていた。
私と悠人は、言葉を忘れてその花を見つめた。空気は張りつめ、風すらも息をひそめている。
「……本当に、咲いたんだね」
「うん……まさか、本当に見られるとは」
白く淡い光を帯びたその花は、まるで幻のようだった。私たちの記憶の中にしか存在しなかったはずのそれが、今ここに咲いている。それは、過去に置いてきた想いが具現化したようでもあった。
「七瀬、あのとき……東京に行った理由って、本当に大学のためだけだった?」
彼の問いに、私は少し目を伏せた。
「……ううん。違うよ。あのとき、悠人の気持ちに気づいてた。でも、どうしたらいいか分からなかった。怖かったの。変わってしまうのが」
「変わるのが……怖かった?」
「うん。あのまま、何も言わずにいれば、私たちは“ずっと幼馴染”でいられるって、思ってた。でも、本当は……私も、悠人のことが、ずっと……」
言葉が詰まり、視線が揺れる。そのとき、悠人の手がそっと私の手に重なった。あたたかくて、懐かしくて、そして今も変わらないぬくもり。
「変わったって、いいじゃないか。七瀬がいない間、ずっと思ってたんだ。どうして、あのとき止めなかったんだろうって。今でも後悔してる。あのとき、何も言えなかった自分が情けなくて」
私は彼の目を見つめた。誠実で、まっすぐで、昔と同じくどこか不器用なその瞳に、ふいに笑いがこぼれた。
「悠人って、昔からほんとに素直じゃないよね」
「お互い様だろ?」
私たちは同時に笑った。かすかに触れていた手を、今度はしっかりと握りしめる。
「なあ、七瀬。……やり直さないか? ここから」
「……うん。私も、それがいいと思う」
そのとき、空が再び動き出した。月が、ゆっくりと姿を現していく。光が戻り、影が退き、世界が息を吹き返す。けれど、たった今咲いた白い花は、月の光を受けながらも、少しずつその姿を閉じていった。
「花……もう、閉じちゃうんだね」
「月が照らせば消える、そんな伝説だったっけ?」
「うん。だから“幻の花”って言われてた」
短い命だった。でもそのわずかな時間が、私たちの心を結び直してくれた。
丘の上、風がやさしく吹き抜ける。私たちは、何も言わずに空を見上げた。新たに始まった月の光の下で、ふたりの影が寄り添っていた。
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